傭兵となって帰ってきた青年は、幼なじみの少女に告げた。3

 ――違う。
 鉛の塊でも詰められたような喉で、俺は必死にそう叫んでいた。

 エミリーに会いに帰った。大人になった俺を見せたかった。それで――それから。
 その後は。

 俺は、どうするつもりだったんだ。村に帰ってエミリーに会って、そのまま村に住むなんてことは考えていなかった。

 ――エミリーに会った後のこと・・・・なんて、考えてもいなかった。

 ただなんとなく、顔が見たくて、ふらっと帰ろうと思ったから。その後、それから先、エミリーに会えなくなるかもなんてことは考えもしなかった。
 何の考えもなく、フィランとエミリーがそこにあり続けてくれると思ったから。

 行こうよ、とエミリーが言ってくる。坂の上。
 エミリーが歩き出す。

 待てよ。何でだよ。どうしてだよ。
 俺はガキみたいにそんなことをうめいて、酔っ払いよりもひどい足取りでエミリーの後を追う。

 こいつはいつもそうだ。鈍くさいくせに、何もないところで転ぶようなくせに、自信満々で歩き出す。俺がそれを追いかけて、転んだエミリーに手を貸してやって、エミリーは笑って懲りもしない。自信満々に方向を間違えるから、最後はいつも俺が手を引いて道に戻した。
 ――でもいま、この坂にのぼらせてしまったら。坂の上に立つ、あのクソ気色悪い神殿に連れて行ってしまったら。

 こいつの手をとって助け起こしてやることも、自信満々に方向を間違えて迷うこいつの手を引いて帰ることも、二度とできなくなる。

(ちくしょう……ちくしょう!!)

 腹の中がねじれるような吐き気がして、胸が押しつぶされそうで、頭をかきむしりたかった。
 なんで、と叫びたかった。エミリーを太陽の御子なんかに選んだ連中に、そしてそれを受け入れてるエミリーに。
 信じられなくて苛立って、腹が煮えくりかえりそうだった。
 なんでこいつは、

 

「なんで――一緒に逃げてって言わないんだよ!! 助けてって言わないんだよ!!」

 

 エミリーが振り返って、大きく目を見開いた。俺を見つめる目に、一瞬、何を言われたのかわからないとでもいうような色があった。
 その顔に、そして自分が発した言葉に、俺の腹の中でどろどろしていたものが熱く煮立った。

(――俺は)

 頭をぶん殴られたみたいで、同時に何もかもを殴り飛ばしたいくらいに腹が立った。
 でもきっと一番大きな理由は――神殿に連れて行ってと言ったくせに、助けてくれとは言わないエミリーのせいだった。

 エミリーの頬がかすかに震えた。こいつが頬を歪めるところなんて、はじめて見た。

「言って、どうするの。そんなこと、できるわけないのに。できるわけないのにユージーンにいやな思いさせるだけでしょ。困るでしょ」
「馬鹿にすんな! 俺には外にいくらでもつてがあるし、お前ひとり匿うことぐらいどうってことない!」

 かっと頭に血がのぼった。
 ――俺はそんなにも、頼りがいのない奴だと思われてるのか。
 できるわけがないなんて言われて、全身の血が沸騰するようだった。

 俺は――俺はもう、七年前の、フィラン村の無力なガキの一人じゃない。なのにこいつの目には、そんなふうには見えないっていうのかよ。

 衝動のままに怒鳴り続けようとしたとき、くしゃりとエミリーの顔が歪んだ。膨らんだ雲がついに雨を弾けさせるみたいに、エミリーの目から雫が溢れた。

「……無理だよ。ユージーンに匿ってもらってって、たとえうまく行ったとして。私、エミリーでない誰かになって生きていかなきゃいけない。誰も本当の私を知らない、遠いところで。それでまた、何年か一度ユージーンが会いに来てくれるの? そんなの、いやだ」

 俺は言葉に詰まった。頬をはたかれたような衝撃があった。
 エミリーの大きな瞳から、また大粒の涙がこぼれる。

「ひとりぼっちは、やだよ。もう置いていかれるのはやだ」

 嗚咽を堪えたその声は震えていた。
 俺は一瞬呆然と立ち尽くした。――エミリーがこんなふうに泣くのを、はじめて見た。
 衝撃に頭が痺れたあと、次に自己嫌悪とも後悔ともわからないものでうめきそうになった。

 ――俺はエミリーに寂しい思いをさせていたのか。

 俺が戦場で幾度となくこいつを思い出したように。ぐうっと胸を押されたように苦しくなって、そのくせに熱くなる。
 エミリーに対するこの気持ちを、なんというか知らない。
 ああ、でも。

「……なんで、そうなるんだよ。もう置いてったりしねえよ。お前が俺を置いていこうなんて百年早えよ!」

 エミリーが濡れた目を震わせる。

 ああ、こいつは。俺がこいつを逃がして、そのあと一人で放り出すと思ってるのか。
 ――七年前、エミリーを置いて村を飛び出したことの意味をいまさら思い知らされる。

 ぐっとこみあげてきた激しい感情のまま、俺は叫んだ。

「一生、お前の側に居るよ! だから――来い!」

 何もかもを振り切るように、エミリーの手をつかんだ。
 潤んだ大きな瞳が見開かれる。
 七年前に一度離した手はいまでも小さくて、俺の手の中に簡単におさまってしまう。
 つかんだまま、走り出す。坂とは真逆の方向へ。

「ゆ、ユージーン……無理だよ! 逃げられるわけない……っ」

 ――太陽が見てる。どこにも逃げられない。
 エミリーは小さい頃に戻ったみたいにしゃくりあげて、手を引く俺に抗う。

 太陽が見てる・・・・・・。俺はその言葉にかすかに身震いしたが、同時にこれまで感じたことのないほどの怒りを覚えた。
 太陽。生け贄を必要とし、俺からエミリーをとりあげようとする忌々しいもの。

「クソ食らえ!」

 ユージーン、と悲鳴みたいな声をエミリーがあげている。
 俺は振り向かなかった。抵抗するエミリーを無理矢理引きずってでも逃げるつもりだった。

 ふいにガキの頃のことを思い出した。無力なガキだった頃。何も知らなかった頃。
 すぐ迷子になったエミリーの手を引いて、村まで戻ったっけ。手を離すとすぐこいつは迷子になっちまうから。

 やがて、つかんだ手に抵抗がなくなった。
 ――そして、柔らかくて温かな手が握り返してきた。
 俺は一瞬だけ立ち止まって振り向く。
 泣き濡れた目が見つめていた。

「本当に、ずっと一緒にいてくれるの」

 嗚咽まじりにエミリーは言った。涙の溢れた目は祈るように、怯えるように俺を見つめている。
 俺は、エミリーを握る手に力をこめた。

「もう置いていかねえよ」

 ただ、それだけ言った。太陽に熱されるよりももっと熱く、全身が燃えるようだった。
 エミリーは泣きながら、何度もうなずく。顔をくしゃくしゃにする。

「――連れてって、ユージーン」

 ずっと一緒に、と震える声が言った。
 俺はエミリーの手を強く握り直して、走った。エミリーも走った。
 青い草原の中を突っ切る。

 どこに行こう。どこまで行けるか。
 
 贄を必要とする太陽が遥か頭上でどこまでも俺たちを照らしている。
 遮蔽物などない草原。緑の海を二人で突っ切っていく。その先を抜けたところで、太陽はどこにでも面を見せるだろう。
 でも構いやしねえ。

 いまはエミリーの小さくて温かな手だけが確かだった。

 ――もう二度と、この手を離したりしない。

いいね
シェアする