傭兵となって帰ってきた青年は、幼なじみの少女に告げた。2

 あそこ、とエミリーが指さしたのは坂道の上。もう目に見えるところにある、わけのわからない建物だった。
 俺がバカみたいにひたすら眺めていた平穏な草原の後ろ側、考えまいとしていたものは、目を背けたからといって消えたり遠のいたりするものでもなかった。

「……ふざけんなよ。お前、何にも変わってねえよ。のろまでそそっかしくて、よく転ぶし物を落とすし。太陽の御子なんて、そんなものになれるわけねえよ。――俺がいなきゃ、一人じゃ何にもできねえだろ」

 声が震えてかすれるのは、かつてないほど怒りを覚えてるからだ。

 変わっていない。変わるはずがない。エミリーは鈍くさくて呆れるほどお人好しで、七年ぶりに俺が帰ってきても、少し顔を見なかったぐらいの態度で迎えやがって、だから。
 昔と、同じに。

 エミリーの表情が、変わる。眉の端を下げて――困ったとでもいうように。聞き分けのない子供に言い聞かせるみたいに。

「七年、経ったよ。ユージーンのいない間も、私、生きてたよ。ひとりでね。変わらないわけない――ユージーンがそう言ったじゃない」

 相変わらず、のんびりとした調子。――でも、それががんと俺の頭を殴ってきた。
 俺は何も言えなかった。

 ああ。こいつは変わらない、何も変わっていない――七年前と同じ、ぬるくて都合の良い関係のままだと思っていたのに。
 それは俺の思い込みでしかなかったのか。

 俺とこいつの間には七年の空白がある。そんなもの、こいつの顔を久々に見た時に吹っ飛んだはずなのに。その空白は確実に何かを変えてしまっている。

 うめくことさえできず、あ、とかぐ、とかクソ間抜けな声ばかりが漏れる。
 それでもエミリーは笑う。俺をバカにするんじゃなくて、いつものあの笑い――それでも少しだけ寂しそうで、あきらめのまじった表情を浮かべて。

「行こうよ、ユージーン。そのためにここまで送ってくれたんでしょ」
「――違う!!」

 なりふり構わず、俺は叫んだ。
 エミリーは一瞬目を丸くして、それから、困った顔をした。――いじめっ子どもに絡まれてたときの表情と同じ。ああちくしょう、俺はあいつらと同じ扱いかよ。

「俺が……俺は、」

 ――こいつを生け贄としてこの坂の上に運んでいくために、こんなところまで同行したんじゃない。

 すべて、バカみたいに悪趣味な偶然だった。
 村を飛び出して七年、一度も帰ることがなかった俺が急に帰ることにしたのは、本当に気まぐれだった。
 ……ただ戦場をくぐり抜けるたびに、こいつの顔や声を思い出して――女を知ったあともこいつのことが離れなくて――妙にイライラして腹が立って、どうにかしてやろうと思って村に帰ったのだ。

 だから、ああ。エミリーに会うために、俺は帰ってきたのだ。

 七年ぶりに会う俺にどんな反応をするかとか。目玉がこぼれ落ちそうな顔で俺を見るんじゃないかとか。すごいとか見違えるとか、そんなことを言うんじゃないかとか。散々浮ついて、期待さえして。

 ――こいつが太陽の御子に選ばれた、なんて知らせはそのすぐ後にやってきた。
 最初は、どっかの祭りかと思った。こいつは祭りの象徴として一時だけ担がれるんだと。
 けど神官だという連中の説明を聞くうち、何か、悪い冗談にしか思えなくなった。

 ――あの頭上にある太陽を維持するために、選ばれたものの心臓が必要? その、今回選ばれた奴がエミリーだって?

 かあっと頭が熱くなる。エミリーの、取り乱しもしない顔がいまは憎くたらしくさえある。こんなの、絶対におかしい。

「……なんでだよ、なんでそんなに諦めてんだよ。こういうときまでへらへら笑うな! 逃げろよ! お前、死ぬんだぞ!?」

 頭の中がぐちゃぐちゃなまま、怒りも苛立ちも反発もぶつけるみたいに叫んでいた。
 逃げろよと言った俺が、こいつをここまで連れてきたのに。

 この坂の上にあるのは太陽の神殿。太陽の御子は、そこで心臓を捧げることになるという。つまりこの坂の上にあるのはご大層な死刑台。太陽の御子に選ばれたやつの、最終目的地だ。

 ――自分が発したエミリーの死を意味する言葉が、どんと腹に響いた。
 吐きそうになる。

 エミリーは――それでも、静かな目をしていた。

「逃げられないものから逃げようとしても仕方ないもの」

 淡々とした声が、俺の耳に突き刺さった。これまで幾度となく聞いてきた言葉。
 ざあっと自分の中から血の気がひいていく音を聞いた気がした。

 こんなときでさえ村のクソガキどもに対するのと同じ態度をとるのか。おかしい。

「……逃げたところで、追いかけられるよ。子供の頃の追いかけっこの比じゃないくらい。私、フィラン村以外に行くところなんてない」

 エミリーは小さく頭を振って、そう言った。
 それで俺はまた、頭を横から殴られたように感じて息を止めた。

 ああ、こいつは。
 抜けてるくせに妙に達観したところがあって、だからクソガキどもに対してもにこにこ笑っていて。
 ――すべてわかっていて、諦めることも、現実を見て受け入れることもしていたのだと、いまさら思い知った。

 神殿の関係者は力を持っている。逃げたら当然追っ手をかける。ろくに財産もツテもない女一人が逃げてどうなる。エミリーはそんな現実が見えている。
 俺なんかよりずっと冷酷に、現実を見据えていた。

「……行かなきゃ。でないともっと暗い日が多くなっちゃう。みんなが、困るよ。……ユージーンも」

 静かに、諭すみたいな声だと思った。そしてエミリー自身にも言い聞かせているみたいだった。
 逃げられないだけではなく。他の誰かのために・・・・・・・・
 驚き悲しみながらも、最後は結局送り出した村の奴らのために。――俺も、その一人で。

『太陽に翳りが多くなってきたのは予兆なのです。御子を捧げなければ、陰は肥大化し、やがて世界は闇に覆われるでしょう――』

 神官のほざいた御託。そんなの知ったことか。腹の底ではそう叫んでいるのに、あのときとっさに反論すらできなかった。
 何もかも現実味がなくて、ただただ呆然としていた。

 すっきりしない天気が続いているのは偶然で、太陽が出ているにもかかわらず明るさが落ちているように感じられるのも錯覚で。
 何も――何も変わらない、そう思っていたのに。

 俺はなんで、こんなところにいるんだ。

(……俺は、)

 このバカみたいにお人好しで、なのに妙に頑固で諦めの悪くて、でも誰よりも現実が見えているエミリーを、生け贄の羊みたいに運んでくるために帰ってきたわけじゃない。

 衝撃に頭をぶん殴られたまま、立ち直る間もなくエミリーを別の誰かが連れて行こうとしたから、割って入って、俺が、なんて言っちまった。
 エミリーは目を丸くしたが、すぐに俺がいいって言った。昔みたいに。

『ユージーン、連れてって』

 川に遊びに連れてってと言ったときのような、昔と同じ調子で言ったのだ。

 だから――それが何を意味するかもわからないまま、こんなところまで来ちまった。
 いや。俺は、考えることから逃げた。投げ出して目を背ければしがらみを捨てられると思った。
 七年前、村を飛び出したときみたいに。

 ――でも、ぶん投げて飛び出したからといってフィランは無くなったりはしなかった。 いま、俺たちの側に厳然とある忌々しい坂も消えたりはしない。

「……俺は――、お前に、会うために帰ってきたんだ」
「……うん。うん」

 俺が、女々しくただ愚痴みたいにこぼした言葉にも、エミリーはのほほんと笑った。――でもそれは、いつもの笑顔とほんの少し違う。

 俺は急に、喉を締め上げられたように苦しくなった。
 エミリーに、こんな顔をさせたいわけじゃない。こんな答えを言わせたいわけじゃない。

 どじでのろまなくせに、こいつは、笑いで何かを隠すということをするのだ。他の奴らは決して気づかなかった。
 ちょうどいまみたいに――泣きそうな顔、苦しそうな顔を、一瞬で隠してしまうのだ。
 こいつは何も感じていないわけじゃない。

「もう、会えたから。うん」

 それで十分だ、もう目的は果たしたとでも言うかのようだった。

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