真の聖女が現れ追放された元聖女は、もふもふの相棒と静かに生きたかった8

 よく通る声は耳を打ち、男たちの手を止め、振り向かせる。

「なんだてめえは?」
「――聞こえなかったのか。失せろと言ったのだ」

 あまりに力を持った声に、ティアレは震えるまま目を見開いた。

 長い外套に、目深にローブを被った長身の影がそこに立っていた。

「へ、わかってんのか、こっちは三人だ。お前も楽しみたいってなら俺たちの後で――」

 ホセが濁声で言った。
 だが外套の男は無言で一歩踏み出す。そのまま臆することなく、一歩、また一歩と近づいてくる。
 ホセは唾を吐き捨てて悪態をついた。

「バカがよ!」

 ホセが叫んで飛び出すと、ティアレを押さえつけていた二人のうち一人が加勢した。

 二人がかりで、それも路地で殴りかかられ、だが外套の男は逃げようとしなかった。
 黒い外套の裾が優雅にたなびいたかと思うと、わずかに半身を反らしてかわし、空ぶったホセのうなじに肘を叩きこむ。

 がっ、とくぐもった悲鳴をあげ、ホセが崩れ落ちる。

 流れるような一撃に、一瞬もう一人の殴りかかった男が唖然とし、外套の男はその隙を逃さなかった。
 瞬く間に距離をつめて懐にもぐりこんだかと思うと、男の顎に、拳を叩きこむ。
 ホセと同様に、男もまた沈んだ。

 ティアレを押さえていた力がふいに消える。

「ち、ちくしょう!」

 最後の男の一人がそう言って逃げようとし、外套の男を通り過ぎようとした。
 だが外套の下から腕が伸びたかと思うと、鉤のように曲がった腕が男の首を引っかけた。
 後頭部から転倒した男は、うめいてそのまま動かなくなる。

 そうして三人の男すべてが地に倒れ、立っているのは外套の男とティアレだけになった。

 ティアレは呆然と、外套の男を見つめた。
 長身のせいか、いっそう暗く濃い影のように見える。その濃い影が再び踏み出し、自分のほうへ近づいてきたとたん、ティアレの恐怖は蘇った。

「……大丈夫か」

 外套の男は少し響きを押さえた声で言った。
 ティアレは唇を震わせるだけで、答えられなかった。

 わずかな間のあと、男の手がふいに、目深に被っていたフードを払った。

 その一瞬、ティアレは恐怖を忘れて小さく息を飲んだ。

 覆いの下から現れた、息を飲むような容貌。
 
 路地の闇の中でも輝くような白金の髪。肩より長いその髪を、耳の上のあたりからとって後ろで結び、流れた髪の一房を三つ編みにしている。
 まっすぐで高い鼻筋、薄く形の良い唇。
 凛々しい銀色の眉の下が窪むほど彫りが深く、目元の陰影を鮮やかにする。

 ティアレの意識を奪ったのは、男の造形の見事さだけでなく、その両眼だった。

 青玉サファイアの虹彩――それでいながら、中心の黒い瞳孔から、翠玉エメラルドの光が放射状に走っている。
 そのまわりを縁どる長い白金の睫毛は、宝石の光沢のようだ。

 意識を奪われたティアレとは対照的に、男は外套を脱いだ。
 数歩でティアレとの距離をつめる。

 ふわりと体を温かなものに包まれ、ティアレはようやく正気に戻った。
 身を隠すように、男の長い外套をかけられていた。

 はっと顔を上げると、男はすぐに数歩距離を取っていた。
 外套の下の衣は、黒い脚衣にくるぶしまでの短靴、上は濃紺の長袖だった。袖や襟に金の刺繍が施され、腰には剣を佩いている。
 装飾がほとんどないぶん、引き締まった体つきが逆に目立ち、男の端正な佇まいを浮き彫りにするようだった。

「住居はどこだ? 送る」

 そう言われて、ティアレはかすかに息を飲む。
 まだ、礼も言っていないことに気づいた。
 同時に、外套を借りて送ってもらうことまでしてもらわなくとも――恐縮の言葉が喉までこみあげたが、男はもう背を向けていた。

 そして床に転がるホセと他二人の男たちがふいにうめき声をあげたとき、ティアレはぞっと吐き気がこみあげるのを感じた。
 とっさに、銀髪の男の後を追っていた。

 長身の男の背が立ち止まる。
 そしてふいに、

「どちらから来たのだったか……?」

 ぽつりと独白めいたつぶやきがこぼれ、思い悩む様子を見せた。
 ティアレはぱちぱちと瞬いた。

 

「まあまあ! とんでもない色男じゃないの! 顔だけじゃなく行動までねぇ!」
「いや、私は……」
「遠慮しないでくださいな! 今日ばかりはお代はいらないよ! さあそこに座ってゆっくりしてって!」

《金の卵》亭の女将の勢いに、銀髪の男は気圧されたようだった。

 ティアレはその様子に自然と笑みがこぼれ、ようやく体を苛む恐怖が解けていくのを感じた。
 ――ティアレがポールと呼ばれた男に腕を引きずられて行ってしばらくして、女将はティアレがいつの間にかいなくなっていることに気づいたらしい。
 側にいる人間に聞いても知らない、見かけないというから訝しんでいたところ、見知らぬ銀髪碧眼の男と、羽織った外套の端をにぎりしめたティアレが帰ってきたので、たいそう驚いた。

 何があったのかと聞く女将に、ティアレが震えてうまく話せずにいると、碧眼の男は端的に「ならず者に襲われていた」と告げ、さらに女将を驚愕させた。
 泣き出しそうな女将に問いただされ、ティアレがつかえながら、ポールとホセの名を出すと、女将は一転して激怒し、鼻息荒く罵倒した。

 ひとしきりそうしたあと、女将はティアレを救った男を絶賛し、立ち去ろうとする男を引き留めて、この恩人のために店を貸し切りにした。

 ティアレは一度着替えたあと、女将のつくった料理を、男のもとに配膳しようとした。

「今日はもうおやめ、イア! あんたも酒でも飲んで、いやなことはさっさと忘れちまいな!」
「女将さん、私は大丈夫――」
「だめったらだめだ! さっさとそこにお座り」

 有無を言わせない口調に、ティアレもまた気圧された。おずおずと銀髪の男のテーブルに近づき、

「こちらに座ってよろしいですか?」

 そう聞いた。
 すると男は、青と緑のまじった瞳を小さく見開いた。

「君と、あの女性の家なのだろう。私に許可をとる必要はない」

 ティアレはわずかに縮こまった。男性の言葉は妙に厳しく聞こえた。
 整いすぎた容貌のために、威圧感のようなものを放っているからかもしれない。
 |王家の紅玉ケーニヒ・ルビンと称されたベルン王子以上に、息を飲むような美貌の男性がいるとは思いもよらなかった。
 年も、あの赤毛の王子と近い気がした。

 何気なく思い出して気持ちが引きずられそうになり、ティアレはいったん息を止め、それを押し込めた。
 そして、目の前の男に向かって頭を下げた。

「助けていただき、心より感謝申し上げます」
「――礼には及ばない。しかしあのような場所に一人でいるのは感心しない。次からは気を付けたほうがいい」

 男は真面目に言い、ティアレはわずかにためらい、重くうなずいた。
 ――元聖女。
 ホセと男たちはにやついてそう言いながら手を伸ばしてきた。ぞっと背が冷たくなる。
 こんな形で狙われるなど、思いもよらなかった。

「君は、イアというのか。このあたりの出身か?」

 静かな、だがよく通る声がティアレの意識を引き戻す。
 ティアレは少し迷い、緩く頭を振った。

 そしてまた、目の前の男に目を戻す。
 引き締まった体。腰の剣。見るからに上質とわかる衣装。
 輝ける白金の長い髪、青に翠の光条がさした神秘的な瞳の色――そのすべてが、ティアレの胸をざわつかせる。
 只者とは思えなかった。

「あの……お名前をうかがってもよろしいでしょうか」

 問うと、男の目にかすかなためらいがよぎったように見えた。

「フィーだ」

 青翠の目の男は、短くそう名乗った。
 それきり口を閉ざすことで、無言のうちにそれ以上の追及を拒んでいた。

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