ティアレもまたうなずき、口をつぐんだ。
――明らかに偽名だ。自分と同じ。
おそらく高貴な身で、忍んで行動しているのだろう。
(……武の名門の方かもしれない)
なんとなく、そう考えた。武芸の心得があり、しかもしぐさの一つ一つに気品が感じられる。
「フィー様。重ねて、お礼申し上げます。こうして無事なのは……フィー様が通りがかってくださり、介入してくださったおかげです。……そのせいで、フィー様の御用をお邪魔したのではありませんか」
「……いや。ただ道に迷っ……さ、散策していただけだ。懸念には及ばない」
銀髪の男は露骨に咳ばらいをすると、目を背けた。
ティアレは虚を衝かれる。そしてつい先ほど見た背中――路地を出ようとしたときの、『どちらから来たのだったか』というつぶやいた姿が脳裏をよぎった。
考えるより先に、言葉がこぼれ落ちてしまった。
「迷子だったのでしょうか?」
「!!」
男の横顔が揺らいだ。
とっさに振り向こうとしたのをこらえたように、頑なに横顔を見せ続ける。
「ま、迷子とはなんだ! そのような……!」
「も、申し訳ありません。で、でも、フィー様がそのように通りがかってくださったおかげで、本当に助かりまして」
ティアレは慌てて言い募る。
「だから、迷子では……」
フィーは消え入るようにそうつぶやき、うめいた。
ティアレもまた少し肩をすくめたあと、愛想のよい微笑を浮かべて話を替えた。
「フィーさま。ぜひお礼をさせてください。なにか、私にお手伝いできることはありませんか?」
高貴な身の男性なら、金銭的な謝礼で報いることはできない。
忍んでいるのなら、身の回りの雑務等を手伝うことで少しでも報いることができるかもしれない――とっさにそう考えての申し出だった。
フィーと名乗った男は律義に、いや、と否定しかけ、だが少し考え込むような態度をとった。
「……《ヘイル》神殿に向かうつもりだが、ここから遠いか?」
その言葉が出たとたん、ティアレは息を飲んだ。
不意の一撃に、胸の中が震える。
《ヘイル》神殿――かつて《星の聖女》として仕えた地。
だがティアレが怯んだのを救うように、女将が盆を手にテーブルにやってきた。
「なんだ兄さん、巡礼者かい?」
「そのようなものだ。行き方をご存じか?」
「ご存じも何も! 神殿に行きたいってんなら、そこのイアに……」
女将が何気なく言おうとしたのを、ティアレは必死に視線を送った。
――元聖女であったということは、できるかぎり知られたくない。
女将は寸前で気づき、あたふたと口を噤んだ。盆を置いて、逃げるように厨房に戻って行ってしまう。
そのあからさまな様子を見逃すほど、男は悠長ではなかった。
「なんだ? イア、君は何を知っている? 神殿の関係者なのか?」
青と緑の目がかすかに細められる。
鋭い眼差しに、ティアレは息苦しささえ感じた。
恩人とはいえ、素性のわからぬ人間に元聖女だと知られるわけにはいかない。
「……以前、聖女付きの侍女としてお仕えしたことがありました。それだけです」
なんでもないことのように、言う。
フィーの目は鋭い光を宿したままティアレを射抜く。
数拍して、どこか頑なさを強くした声が、「それならば」と切り出した。
「――《救国の聖女》に会いたい。できるだけ内密に。方法はあるか?」
そう聞いたとたん、ティアレは今度こそ息を飲んだ。
《救国の聖女》。
――自分が追放されたあと、遠くまで聞こえるほどになった、《真の聖女》ジェニアの異名。
胸の奥で、乾いたはずの傷がずきりとうずく。
天才。女神の寵愛。
神官長の、赤毛の王子の言葉が耳の奥に何度も蘇ってくる。
「……内密に、とは。聖女様は、癒しを求めてこられる方を……平等に、見てくださるはずです」
波打つ胸の内でかろうじてそれだけを答えると、フィーの眉間がはっきりと険しくなった。
「都合のいいものを平等にだ」
そう切り捨てた声は厳しく、冷ややかな怒りを帯びていた。
ティアレははっとする。思わずさぐるように目の前の男を見た。
「……フィーさまは、どこかお怪我を? それとも、他に助けたい方が……?」
「私は負傷していない」
フィーは眉間に険しさを漂わせたままだった。
多くは語られない言葉の切れ端が、ティアレの中で細くつながる。
――この素性の知れない高貴な男性には、助けたい人がいる。
おそらく既に正式に打診した。だが断られた。
そういう推測になる。
(でも……)
聖女の奇跡は、むろんすべての人間に施されるわけではない。
ためらいながら、ティアレはそっと口を開いた。
「僭越なことを申しますが……。聖女様の力は必要なく、自然治癒できるものと判断されたのではありませんか。事前の審査で、医師を紹介される方も多かったと……そう、うかがっています」
とたん、銀色の眉が更に険しさを増した。
「あれが、自然治癒できるだと?」
凍てつくような声が、ティアレの言葉を切り裂く。
はっきりと怒りを滲ませた男に、ティアレは目を伏せた。
「……申し訳ありません。浅はかなことを申しました」
羞恥で頬が熱くなる。
無意識に、相手を見下すような言い方だった。聖女の奇跡は決して万能な力ではない、そんな考えだ。
――本気で聖女の力を必要としていて、それで断られたというなら侮辱ととられてもおかしくない。
助けたい人がいるという気持ちを踏みにじる言葉だった。
怒りを抑え込もうとしているかのように、フィーは少し長く息を吐いた。
「……いや」
短く、そう言った。そこにかすかにばつの悪そうな響きがあった。
「それで……内密に《救国の聖女》に会うことはできるか? 直に話すことができればなんでもいい。むろん、名誉を汚すような真似はしない。ただ、話がしたい」
怒りを抑え込んだ落ち着いた声色で、フィーは再度問うた。
ティアレは言いよどむ。
――聖女は、王家と神殿に守られている。いかなる許可もなく、聖女本人に会うことはできないだろう。
ましてフィーはわざわざ忍んで行動しているほどで、かなり特殊な素性のようだ。まともな方法で面会がかなうとは思えない。
だがそうだとしたら――彼が助けたい人はどうなるのだろう。
ティアレの無言のためらいを感じてか、フィーは静かなため息まじりに言った。
「……無理を言ったな。忘れてくれ」
「! ですが、」
「君を助けたのはそうすべきであったからで、見返りを求めたわけではない。他を当たるゆえ、気にしないでほしい」
皮肉も冷笑もなく、フィーはただ真摯だった。
だがそれだけ、余計にティアレの胸は騒いだ。
(……癒しの奇跡を、必要としている人がいる)
聖女の力を必要としている人が。その事実に、体の奥深くで眠っていたものが騒ぐようだった。
忘れたはずなのに――捨てたはずなのに。
《星の聖女》として過ごしてきた日々の記憶が、癒しの奇跡を必要としている人を見過ごすことはできないと叫んでいる。
(何が起こっているの)
自分がいなくなったあと、あの国は、王都はどうなったのか。
彼らの噂を、ずっとずっと聞かないようにしてきた。そうしなければ日中の仕事は手につかず、夢にまで見て安らぐ暇もなかったから。
ずっとずっと押し込め続けてようやく忘れられると思っていたのに、こんなにも簡単に噴き出してしまう。
否。そんな大儀などなく、本当は。
(……ベルン殿下。《真の聖女》)
自分がいなくなったあとで、ベルンとジェニアがどうなったかなどおそろしくて知りたくなかった。
――知りたくて、たまらなかった。
知らなければ、漠然とおそろしさが増す。
嫉妬と羨望と絶望が、胸を焦がす。
それでも――だからこそ、見て見ぬふりをすべきなのかもしれない。目を背けて耳を塞いで。
第一、自分は追放された身だ。
二度とこの地を踏むなと、ベルンに命じられた。
なのに、ティアレの言葉から出たのは真逆の言葉だった。
「……非正規の方法でしたら、聖女さまに会うことも可能かもしれません」
物珍しそうに周囲を眺めていたフィーが、はっとしたように振り向いた。
青と緑の瞳が見開かれ、ティアレを見つめる。
「本当か?」
「はい。神殿の構造は知っております。つまり……万一のときは、その」
忍び込む。
だがその言葉はいかにも賊のように聞こえてしまう。ティアレ自身、そんなことを思いつく自分にすら驚いていた。
それでもフィーは真面目にうなずいた。
「構わない。しかし……君は本当にいいのか? 私に恩を感じて、君まで無理をする必要はない」
よく通る声には、配慮が滲んでいた。
ティアレはゆるく頭を振った。
「自分のためです。自分が――知りたいのです」
ほんの少し。王都の様子を見聞きするだけ、噂を確かめるだけだ。
フィーはつかの間沈黙した。青翠の目がティアレをなぞったあとで、わかった、とうなずき、
「よろしく頼む」
礼儀正しく、言った。
――これが、ティアレの転機だった。
ティアレ自身にも、他の誰にもわからなかった分岐点。
一度力を失って追放された女が、後に再び《聖女》と呼ばれるようになる未来など、女神以外に知る者はいなかった。