――その日も、イアにとって馴染んだ一日になるはずだった。
長い髪をきっちりと縛り上げて被り物をし、前掛けをかけ、袖を軽くまくる。軽く掃除と洗濯からはじまり、食事場としての《金の卵》亭の配膳係として立ちまわっては少々野卑な野次を困惑まじりに受け流す。
混雑の時間をすぎて客の大半が引き、店の裏でひとり洗濯を続けていると、ふいにひそめられた声が聞こえた。
「聖女様」
今度ははっきりとそう聞こえ、ティアレは息を飲む。
振り向くと、一人の男があたりをはばかりながらティアレを見つめていた。
――聖女。
男ははっきりとそう言った。
「あ、あんた、聖女さまなんでしょう。ごまかさないでくださいよ!」
口ごもるティアレに、男はどこか必死な様子で言った。
イアが元《星の聖女》であることはいまのところ女将しか知らず、女将にも他言しないように頼んである。
どこから漏れたのか。――だが女将のように、神殿にやってきて顔を見ているという人間もいないとは限らない。
「どう、なさいましたか?」
「そ、それが、あの、聖女様のお力が必要になりまして……! す、すぐ来てほしいんです!」
ずきりとした鈍い痛みがティアレの胸に起こった。
――癒しの力を求められている。
それでも、もう答えられない。
ティアレは鈍く、頭を振った。
「ごめんなさい。私はもう、聖女としての力を使うことができません。もし怪我人でしたら、医者を……」
「い、医者じゃだめなんです! とにかく来てください!」
男はひどく必死で、ほとんど懇願するようだった。
癒しの力がもう使えないという言葉さえまともに理解できていないのかもしれない。
だが医者ではいけないという言葉が妙に耳に引っかかる。
「では女将さんに言ってから……」
「だ、大丈夫です! 女将にはもう、言ってありますんで!! さあ!」
男はティアレの腕をつかむ。
食い込むその手にティアレは驚き、またかすかな恐怖さえ感じた。
だが男の必死な様子に、かつて神殿で見た懇願する者たちの顔がよぎり、振り払えなくなってしまった。
「わ、かりました、行きますから……」
手を離してください、とティアレは声を絞り出した。
それでも男は、溺れるものが必死につかむようにティアレの腕をつかみ続け、《金の卵》亭から抜け出した。
「怪我人ですか? それとも、病人ですか?」
引きずられるようにして早足になりながら、ティアレは必死に聞いた。
《金の卵》亭の裏から出ると路地になる。太陽がもっとも高く上る時間をすぎて夕方間際になると、路地はもう一足先に夜が忍び寄ってくるような暗さだった。
「それとも、参拝の希望者で――」
ティアレが続けてそう問うた時、ふいに男が止まった。
そこは暗い路地の、突き当りだった。
どこか家屋の入り口、あるいは路地に倒れている人間でもいるのかとティアレは一瞬不安になる。
だが背後から足音が聞こえ、振り向いた。
「へへ、よくやった、ポール」
にやついた笑みを浮かべて立っていたのは、ホセと呼ばれて女将に怒鳴られていた男と――その後ろに、ティアレの見知らぬ男たちがもう二人いた。その二人も、ホセと同じように、舌なめずりするような笑みを浮かべていた。
「……こ、これで、借金は……」
「ああ、減らしてやる。さっさと失せろ」
ポールと呼ばれた男が首をすくませ、ティアレを振り向きもせず、ホセのほうに向かって走り、そして通り過ぎて去った。
あとには、ティアレと三人の男たちが残された。
ティアレは一瞬、目の前が暗くなるような感覚に襲われた。背が凍り付く。
足が、後じさりする。
「あ、あの……聖女に、会いたいという方は」
「おーおー、まさしく俺たちだ。会いたくて会いたくてこうして連れてきてもらったぜ。何度誘ってもつれねぇからよ」
ホセが踏み出す。後ろの二人も近づいてくる。
「聖女さまがこんなところにいてよ、俺たちの手の届くところにいるなんてなあ。食わなきゃ一生後悔するってもんだ」
野卑な笑いに、ティアレの足が震えだした。
かつて感じたことのない恐怖だった。
――もう聖女じゃない。
だがそう言っても、この男たちが癒しの力を求めているのではないことは、戦慄をもって察していた。
「仕事がありますから、戻ります! っ、離してください!!」
震える足を無理やり動かし、男たちをすり抜けようとするとつかまれる。
ホセと男たちが笑い声をあげ、取り囲む。
「離し……!!」
つかんでくる腕を無理やり振りほどこうとしたとたん、髪を覆っていた頭巾がはぎ取られた。
両腕がつかまれ、ホセが、もう一人の男の手が服にかかる。
襟を力づくで引っ張り、布の裂ける音が響く。
男たちの口笛が響いた。
冷たく湿った空気がティアレの肌に触れる。
「いやぁっ!! 誰か――っ!!」
叫んで、固くざらざらした手に口を塞がれた。
声がくぐもり、ただ男たちの野卑な笑い声と口笛が耳を覆い、服を破く手が下がる。
ティアレは強く目を閉じ、一滴の涙が頬を伝ったとき、
「失せろ、下種が」
冷厳な声が、路地に響き渡った。