「イア! こっちも頼むよ!」
「はい!」
注文の料理をテーブルに届けたとたんすぐに女将の声が飛んで、ティアレはすぐに身を翻した。
昼時の《金の卵》亭は食堂として大いににぎわい、すでに酔っぱらって赤ら顔をした男たちや、雑談まじりに食事をとる者たちで溢れかえっている。
「イアは今日も可愛いねえ」
「どうだい、夜はあいてるか?」
配膳の途中に別のテーブルの男たちからそう声をかけられ、ティアレは「夜もお仕事があります」とやんわり微笑んでかわした。
「夜のお仕事ねえ。それじゃそっちも頼もうか」
「こらホセ! 馬鹿なこと言ってると叩き出すよ!」
にやついた笑みで続けた男を、恰幅のいい女将が大声で一喝する。どっと笑いが起こり、男はたちまち身をすくませた。
昼の賑わいがすぎて《金の卵》亭が宿場としての顔を取り戻すと、《金の卵》亭の裏に引き下がる。そこの一階が、ティアレの現在の住処だった。
小さな部屋には寝台と書き物机でいっぱいになっている。窓からさす光はもうだいぶか弱くなっていた。
机の上の燭台にそっと火を灯し、ティアレは縫いかけの服と針を手に取った。
しばらく黙々と縫っていると、コンコンと扉を叩く音がした。
顔を上げると、女将が顔を見せた。手に小さなコップを持っていた。
「イア、縫い物はそんな急ぎじゃないからたまにはお休み。あまり働きっぱなしじゃ倒れちまうよ」
「……大丈夫です。終えていない仕事があると、なんだか落ち着かなくて。それに、こういうお仕事は嫌いじゃないんです」
ティアレは本心から言い、笑うと、女将は呆れたような、感心したような息をもらした。
「ほんとに働きものだよ。さすが、元聖女だ」
それは他意のない、素直な称賛の言葉だった。
だがティアレの体はかすかにこわばり、頬がひきつった。かろうじて微笑を保ち、押し隠す。
ちゃんと休むんだよ、と念押して、気の良い女将は薄めたワインを入れたコップを残し、去っていった。
ティアレはまた、裁縫に戻った。
この一年で、裁縫の腕もずいぶんましになった。拾われたばかりの頃、針をまともに刺せないほどひどかったことを思い出す。
一年前――《星の聖女》ティアレは死んだ。
死罪を免れ、追放処分となっても、実質この世界から消えたも同然だった。
あのとき人気のない荒野を前に、アズがついていなければ数日で野垂れ死にしていたかもしれない。
もういい、どこでも行ってと何度言っても、アズは自分から離れようとしなかった。
アズならば自由に野に生きたほうがいいに決まっているのに。
そうなれば、自分についてきたたった一人の友まで死なせるわけにはいかなかった。
足が棒のようになっても、ティアレは歩いた。歩いて歩いて歩き続け、夜はアズにもたれて眠り、川の水を飲んでなんとか命を繋いだ。
――前へ前へ。
とにかく、自分とアズが生きられるところへ。
何度も朦朧とし、幻覚を見てはすすり泣き、それでも進んで、ついに幻ではない町の姿が見えた。
そこが国境の町だった。
町の入り口で倒れたところを、《金の卵》亭女将の知り合いが見つけてくれた。
はじめは盗賊にあい、ひどい無体をはたらかれた娘と思われて哀れまれた。
やがて女将は、その介抱した娘に見覚えがあると気づいた。
数年前、従妹が負傷して神殿への参拝に付き添った。そのとき《星の聖女》に診てもらった――この娘の顔は、その聖女と似ていると。
意識を取り戻したとき、ティアレは女将に質問攻めにあい、ことの一部始終を話した。
人の良い女将は哀れむと同時に憤慨し、自分のところで身柄を引き受けると申し出た。
ティアレは恐縮したが、他に頼れる人もなく、その日からずっと世話になっている。
以来、長い紺色の髪をきつく縛り上げて頭巾に押し込み、古着に前掛けをまとったティアレは、イアと呼ばれるようになった。
はじめは何もできなかった。せめてものお礼にと女将を手伝おうとしても、むしろ仕事を増やすばかりだった。
自分の髪をまともに結うことさえできなかったのだ。
ティアレは元は令嬢で、あとは聖女としてつとめること、傅かれることしか知らなかった。
何度も頭を下げ、あまりの役立たずに泣きながら、必死になって一つずつ覚えていった。
考えて繰り返して覚えて、それを続けられればなんとか形になる。
――かつて、自分がまがい物であったとしても聖女になれたように。
少なくともそのことだけは知っていた。
――かりかり、と扉を軽くひっかく音がして、ティアレははっと顔を上げた。
縫い物をすぐ机に置き、扉を開ける。
金色に光る狼の目が見上げていた。
ティアレは微笑んだ。
「おかえり、アズ」
灰色の毛に覆われたしなやかな狼が、ティアレに体をすりつけながら部屋に入り込んだ。
ティアレが椅子に座りなおして縫い物を取ると、アズもまた何も言わず足元にうずくまって眠る。
それが、この一年の毎夜の光景だった。
昼間、アズは町の外に行って獲物を狩っているらしかった。
ティアレに心を許しているといっても、決して飼い犬のように与えられた餌を食べることはしないし、他人の手が触れるのを許すこともしない。
自分という狼が他人におそれられることを知っているようで、他の人間に姿を見せるようなことはめったにない。
こうして毎夜戻ってくるということを知っているのは、《金の卵》亭の女将だけだ。
それでも、人が良く豪気な女将すらやはり狼はおそろしいようで、アズは女将にもなるべく姿を見られないようにしていた。
女将に恩を返し、アズがいつか自由に生きられるときまで生きる――何も考えず、ただただ平穏に。
それがいまのティアレの、《イア》の生きる意味だった。
ほかのことが思い浮かぶたび、遠くへ追いやる。――鮮やかな赤毛の王子のことも、女神の寵愛を受けた少女のことも。荘厳な神殿のことも、何もかもを。