堕ちた聖女は贄の青年に誘われる10

 ふ、とタウィーザの顔から若者らしい表情が消えた。それから、ヴィヴィアンの視線を誘うように、首筋にある一対の痕に手を触れた。

「美味かっただろ、俺は」

 ヴィヴィアンはひゅっと息を飲んだ。タウィーザの声は、先ほどまでとは別人のように妖しいものへ変わっていた。

「一度知ったら、もう戻れない」

 静かな呪いのように、タウィーザは言う。
 ――一度その血の味を知ってしまえば。

 ヴィヴィアンは無意識に、一歩後退した。青白い目が追ってくる。得体の知れぬ威圧感。縛られる。体がすくむ。

 タウィーザは笑っていた。

「あんたは俺から離れられない。二度とな」

 

「ヴィヴィアンさまっ!」
「……お帰り、アンナ」

 屈託のない笑顔で駆け寄ってくる侍女の姿を見たとき、ヴィヴィアンは温かな安堵を覚えた。
 ――逃れられない、と笑った男の声を、アンナの明るい声が和らげてくれる。

 まともに反論すらできず、ただ逃げるようにタウィーザの部屋を出た。

 だがそのアンナの後ろに二人の男がついてきていることに気づいた。
 いつもなら、ヴィヴィアンが海辺で待ち、船から出てくるアンナを迎える。そしてアンナと二人で館に戻る。

 なのにいま、アンナは二人の男とともに、ヴィヴィアンが迎えに行くより早く館へ着いた。男たちは、見慣れた輸送担当者ではなかった。
 ヴィヴィアンの体に緊張がはしった。

 男たちは無表情だったが、ヴィヴィアンの姿を見たとたん、頬や口元に緊張が生じた。――野の獣、あるいは敵を見つけた瞬間に生じるような顔だ。

「あの奴隷はどうした」

 男の一人がことさら尊大な態度で言った。
 ヴィヴィアンははっとする。すかさず言った。

「彼を連れ帰ってください」
「いまはならん。それより、あの男はまだ・・、生きているか?」

 冷ややかな声にヴィヴィアンは目を見開いた。
 ――満月の晩を《血塗れの聖女》の贄として過ごし、それでもタウィーザは生きているか、という意味がこめられているのは明白だった。
 ヴィヴィアンは強い不快感と怒りを覚え、反論しようとしたが、不思議そうな顔をするアンナが側にいるのを思い出して堪えた。

「……アンナ、応接間のお掃除をしておいてくれる?」
「はい、ヴィヴィアンさま」

 良い子ね、とヴィヴィアンは柔らかな声で言ってアンナが去って行くのを見た。

「……あなたたちはこちらへ」

 無表情を繕い、タウィーザを休ませている部屋へといざなった。
 二階へあがり、扉を軽くノックする。答えはない。

 鍵をかけていなかったから、扉は難なく開く。
 部屋に入って寝台に近づくと、タウィーザは眠っていた。
 やや血色を失っているようだが、寝顔は健やかで、少年のようなあどけなさがあった。

 ヴィヴィアンはほっとした。
 男たちもまた部屋に入ってきて、無感動にタウィーザを見た。

「血を吸ったが、絶命させるほどではなかったか」

 タウィーザの生死などには興味が無いと言わんばかりの淡白な口調だった。
 それから、男たちはヴィヴィアンを見た。
 何かの現象や実験の経過を観察するかのような、感情のない眼差し。

「理性は残っているようだな。力も回復したのか?」
「なぜ、そのようなことを聞くのです」

 無遠慮な物言いにヴィヴィアンはかっと怒りで顔が熱くなった。
 一方で、男たちの言葉を否定できないのが悔しかった。実際にタウィーザの血で飢えを癒した自分が恥ずかしく、汚らわしい。

「……いったい何のつもりです。贄などとして侍女以外の人間を送り込むなど。……ジュリアス殿下はこのことを知っているのですか?」

 乱れる心を抑え、ヴィヴィアンは男たちを睨む。
 ――本土で何があったのか。ジュリアスに何があったのか。
 手紙とともにジュリアスのもとへ送りだした鳥は、いまだ帰ってきていない。

「弁えよ。王子殿下の名をみだりに口にするな。後日、正式な命令がくだる。それを待て」

 ヴィヴィアンは目を見開く。
 ――命令。
 男たちは職務を果たしたとばかりに踵を返す。

「ま、待ちなさい! どういうことなの!? タウィーザをすぐに連れて帰って……!!」

 ヴィヴィアンは男たちに追いすがる。だが男たちはしつこい物乞いを見るような目でヴィヴィアンを一瞥し、振り払った。
 男たちは足早に館を出て行き、ヴィヴィアンが力ずくでタウィーザを運ぶ間もなく、船に乗って去って行った。
 ヴィヴィアンは砂浜に取り残され、両足を砂に埋もれさせながら呆然と立ち尽くした。

(命令……? いったい、何が起こっているの……)

 ざあ、と波の音が聞こえる。どこか、耳の奥で聞こえる血流の音にも似ている。

『あんたに力を取り戻して欲しいから・・・・・・・・・・・・だろ。あんたは再び、便利な武器として使われようとしてるんだ』

 タウィーザの声が、波の向こうに蘇った。

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