堕ちた聖女は贄の青年に誘われる11

「……ヴィヴィアンさま、煮えていますよ」

 侍女の高い声で、ヴィヴィアンははっとした。
 慌てて手元に意識を引き戻す。鍋の中でスープが煮え、食欲をそそる匂いを漂わせていた。香辛料のおかげで肉のくさみが消えている。

 持っていきます、と言うアンナを押さえ、ヴィヴィアンは特製スープを器に一人分を盛って、二階に持っていった。

「……タウィーザ。入るわ」

 ノックして扉を開けると、タウィーザの姿は寝台になかった。
 部屋の真ん中に立ち、伸びをしている。よく引き締まった体であることが改めてわかる。ヴィヴィアンはちょっと目を瞠った。
 タウィーザはヴィヴィアンとその手の中にあるものを見て、苦い顔をした。

「またそれ・・か」
「失った血を回復するには臓物がいいのよ」
「ずいぶんと詳しいことだな」
「……私、《血塗れの聖女》って言われてるらしいのよ。知ってた?」

 タウィーザの皮肉にも多少は慣れてきて、ヴィヴィアンはさらりと言い返した。
 実際、ヴィヴィアンは血液に関して何度か試した。――人血を口にしないですむ方法はないかを探していたためだ。血を大量に失った人間にどういう食事がいいのかというのも、そのなかで知った。

 この特製スープは、ヴィヴィアンが材料の調達――つまり狩り――から調理まで一人で行ったものだった。生臭みを消す、味を調えるなどの努力もむろん怠ってはいない。

 テーブルに器を置く。
 タウィーザは顔をしかめていかにもうんざりした様子を見せた。

「もう少しまともな食事はないのか」
「あいにく、ここは酒場でも宮廷でもなくてね」
「へえ? あんたがずいぶん長居してるから、よほどいい料理でも出るのかと思ってた」

 じろり、とヴィヴィアンは皮肉のやまない青年を睨む。
 さめないうちに、と言おうとすると、ふいにタウィーザの唇に薄い笑いが浮かんだ。淡く青みがかった目が、冷ややかさをもって見つめてくる。

「で、あんたの待ち望んでる王子様からの返事は届いたか?」

 先ほどまでの皮肉とは違う、もっと突き放した響き。
 それがヴィヴィアンの胸をふいに貫き、ぎゅっと唇を引き結んだ。

「――答えを聞くまでもないか」

 当然だとでもいうように、タウィーザは言う。
 ヴィヴィアンは黙っていた。
 焦れるような思いで、ジュリアスの返事を待った。
 満月が過ぎた以上、輸送船は次の満月間際まではやってこない。本土との連絡は、鳥の運ぶ手紙しかなかった。

 なのに、その返事が来ない。
 単なる私信ではない。なぜ贄などという青年を送り込んできたのかという、重要な問いであるのに。

(ジュリアス……どうして?)

 彼が、無視するはずがない。ならば、彼に何かがあったのかもしれない。もともと多忙の身だ。何か、きっと理由があるのだ――。

 頭で言い聞かせながらも暗い感情に片足をとられる。
 突然、視界の端で長身が傾ぐのが見えた。
 ヴィヴィアンは反射的に軽く跳躍した。
 青年の懐に飛び込み、傾いだ体を受け止める。答えの出ない思考はいったん脇に置いた。

「やっぱりまだ安静にしていないとだめじゃない……!」

 見上げながらそう怒ると、少し見開かれた目と合った。
 光の下で見ると、わずかに青みがかった氷のように美しい色をした目だった。左目を囲む茨の刺青も、瞳を彩る装飾のようで艶めかしさが漂う。

 ヴィヴィアンは一瞬飲まれる。が、すぐに顔を逸らした。
 ――妙に鼓動が速くなり、いたたまれない気持ちになる。

 口を開けば冷笑か皮肉ばかり言うこの青年は、口さえ開かなければ非常に整った顔立ちをしていた。
 それに、布越しでも触れる体の熱さがわかる。
 ヴィヴィアンはその感覚をつとめて頭から追い出すことにして、青年の体を支えながら寝台まで押していった。

「回復しきるまではとにかく安静に――」

 手を放し、青年の体を寝台に戻そうとしたとき、ふいに熱さに包まれた。
 
「は、怪力のわりに華奢だな」

 タウィーザの笑いまじりのささやきが、耳元でする。
 ヴィヴィアンは固まった。
 大きな体にしがみつかれて――まるで抱きすくめられているような形になって――あまりに予想外の事態に頭がついていかなかった。

(な……)

 何が、起こっているのか。
 とっさにしがみつく、というには腰の後ろに回った腕も、背に回って肩をつかむ手も強すぎる。
 ――熱すぎる。
 やがて、高い鼻が耳の上の髪をかきわけるようにふれ、耳朶のすぐ上に吐息がかかった。

「……諦めろ。王子は、もうあんたの味方なんかじゃない」

 少し低く、濡れたようなささやき。ヴィヴィアンはびくりと体を震わせる。
 ――ジュリアス。
 顔だけ動かし、青白い目と合わせようとする。

「あ、なたは……何か、知っているの。ジュリアスに、何が……」
「何もない。王子はあんたをとっくに諦めて、なのにその王子にいまだ心を残してるあんたが滑稽なだけだ」

 嘲りを帯びた言葉が、ヴィヴィアンの胸を刺した。
 ――ジュリアスが、諦めた。

(そんなの……)

 わかっている。
 時が経って、婚約が白紙になったことも互いの関係を切らなければならなかったことも仕方ないと受けいれられるようになっている。自分にだってあのとき抱いていたような熱情もない。

 けれど、だからといって、まったく繋がりが途絶えたわけではない。
 婚約が破棄されたときも――ジュリアスは罪悪感に苛まれ、自分に謝ったのだ。そしてこの島に移すことで助けてくれ、いまもなお援助してくれているのも彼だった。

 ずきずきとした鈍い痛みが、体の表面を覆っていた呪縛を解く。
 ヴィヴィアンは両手で青年の腕をつかみ、べりっと引き剥がした。

「……戯れるだけの元気があるなら、さっさと食事をすませることね」

 青年の体を軽く寝台に向けて突き、テーブルに置いてあった器を寝台の横のサイドテーブルに移す。
 それから素早く踵を返し、タウィーザの目を避けるように部屋を出た。

 廊下に出たあと、唇に手の甲を押し当てていた。顔が歪む。息を殺す。
 なぜ自分の心がこれほど乱れるのかわからなかった。

(いったい、タウィーザはなぜこんなことを……!)

 彼の望みは復讐なのか。だがそれにしてはあまりに近しく、欺くにしては白々しさが足りない。
 声の冷たさとは対照的にタウィーザの体は熱く、ヴィヴィアンの体に火を押し当てるかのようだった。

 

 月は満ち、欠け、また満ち始める。新月ののち、徐々に夜をこじあけていくように月の銀光が広がってゆく。
 それでも満月にはいまだ時間があるころ――《血塗れの聖女》が住まう小島に、一艘いっそうの船が入った。
 ヴィヴィアンの視力は、海の向こうからやってくるその船を早くに捉えた。
 そしてそれが見慣れた輸送船でないことに気づくと、突如不吉な胸騒ぎに襲われた。

 館を出て、足早に浜辺へ向かう。
 やがて海辺へたどりつくと、船の異様さがあらわになった。いつもの輸送船より遥かに上等なつくりだった。

(これは……?)

 ヴィヴィアンは愕然とする。
 やがて、その船から桟橋に降り立った人間がいた。はじめは近衛騎士の制服を着た男たちで、そのあとに悠然と降り立った男がいる。

 艶やかで明るい栗毛。磨かれた鋼のような灰色の瞳。すらりとした体を、豪奢な衣装が包んでいる。
 灰色の瞳が周囲を見回し、ヴィヴィアンに気づいた。目が大きく見開かれる。
 ヴィヴィアンもまた、同じ表情をしていた。

「――ジュリアス」

 たちまち乱れ始めた鼓動の合間に、そう呼んだ。
 灰色の瞳の王子――ジュリアスはかすかに目を細めてヴィヴィアンを見ると、品の良い微笑を浮かべた。

「久しいな、ヴィヴィアン」

 ヴィヴィアンはジュリアスから目を離せなかった。
 ――なぜ。
 そう思うのに、鼓動が乱れた。

「……話したいことがある」

 ジュリアスはそう言って、館に招かれることを暗に望んでいるようだった。
 ヴィヴィアンはジュリアスと勤勉な近衛騎士たちとともに館に戻った。
 騎士たちはジュリアスの護衛だったが、ヴィヴィアンに鋭い眼差しを向けていた。突如現れるかもしれぬ暴漢や不届き者より、ヴィヴィアンを警戒していることは間違いなかった。

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