完全に満ちた月が、煌々と地を照らす。
ヴィヴィアンのかすかな願いもむなしく、月を隠す一筋の雲さえなかった。
冷たく白い光が、あらゆる窓や隙間から侵入してくる。
厚いカーテンをしめて覆っても、完全には防げない。
調度品や家具を撤去した空き室の一つで、ヴィヴィアンは一人座っていた。うつむき、膝の上で両手を強く握りしめる。だがその手が震えている。
ふつふつと全身の血がわきたっている。喉がひどく渇き、激しい空腹感で目眩がする。
(……大丈夫よ)
何度も自分に言い聞かせる。
――これまでだって、ずっと耐えてきた。
満月のこの一晩がもっとも苦しい。この一晩さえ、乗り切れば。
ヴィヴィアンはぶるっと身を震わせた。
――その一晩が、異様に長い。
これまで耐えられたという思いと同時に、激しい苦痛がやってくると理解しているがゆえに、どうしようもなく逃げ出してしまいたくなる。
ヴィヴィアンはかすかに鼻を鳴らした。泣いても叫んでものたうちまわっても、ここには自分しかいない。だから、どれだけ惨めに泣きわめいてもいい自由だけは残されている。
震えながら息をして、呼吸に意識を集中させる。飢餓感から少しでも目を背けようとする。
だが暗い水底から泡が浮かんでくるように、記憶の奥底からある光景が蘇った。
――阿鼻叫喚。剣戟。喊声。炎。蹄の音。
薄膜を一枚かけたような世界で、敵の姿が見える。《タハシュの民》の戦士たち。勇猛で機敏な彼らの動きは、けれどそのときの自分の目にはひどく鈍重なものに見えた。振り下ろされる拳も武具も、まるで赤子が玩具を振り回しているかのようだ。
全身の血が煮立っているような感覚。万能感と高揚の奔流の中、ヴィヴィアンはひとさじぶんだけ残った理性を握りしめるのが精一杯だった。
敵を撃つ。殺す。殲滅する。抹消する。王都を取り戻すために。
武具など持ったことのなかった手は、拾った武器を振り回すだけで敵を打ち砕き、はじきとばし、切り裂いた。その武器が毀れてしまえば、己の手足が武器になった。
屈強な男たちはヴィヴィアンの手に殴打され、投げ飛ばされ、縊られ、動かなくなってゆく。
血の臭いは世界のすべてに蔓延し、ヴィヴィアンを酔わせた。
――戦える。まだ。もっと。
――もっと血を!
「……っ!」
ヴィヴィアンは激しく頭を振った。両手で頭を抱え、指先に力をこめる。その力で、痛みで、意識の波間に浮かぶ過去を抑えつけようとする。
(いや……いや――)
もう二度と、あんな狂乱の世界に戻りたくない。
戦っている最中は、守るべきもののためにすべての感覚を麻痺させていられた。だが、それが過ぎて残ったのはこの悪夢と耐えがたい飢えと、深い暗闇だった。
邪神の血は身体能力を引き上げる。
人の目には見えないはずの暗闇も、見えるようになってしまう。
嗚咽なのか、餓えた獣の吐息なのかわからぬ呼吸を繰り返す。
『俺は贄だ。あんたのためのな』
また、意識の奥底から浮かんでくる。冷えた声。タウィーザの声。
ヴィヴィアンは頭を振る。
唾液がこみあげてくるのを、何度も飲み込む。
なのに、目の裏にも青年の姿が蘇った。
豊かな暗色の髪、冷たく挑戦的な目元。青白い瞳。左目を囲む茨の刺青。
陽光を十分に浴びた肌、引き締まった体つき。若く強靭な生命、青年としての力が漲っている。その温かな皮膚の下を流れる血は、きっと熱く鋭く、芳醇だろう。
鼻腔にその匂いを感じ、喉の奥に熱さを感じるようだった。
ヴィヴィアンはその幻想に陶然とした。
ああ、どうしていまタウィーザはここにいないのだろう――。
彼がいれば、こんな苦しい飢えは。
(っだめ!! 違う……っ!!)
もやがかかりつつある頭を、激しく横に振った。自分を強くかき抱くようにして、体を折る。何もかもをしめだそうとして、強く目を閉じた。
自分の中に巣くう異形の血が、浅ましい衝動が、贄を求めている。
閉じた目から涙が一筋伝った。
早くこの夜が過ぎればいい。早く早く――。
「苦しそうだな、聖女様」
冷たく笑う声が、ヴィヴィアンの体を貫いた。
ヴィヴィアンは大きく目を見開いた。
飢えのあまり幻聴を聞いたのだと思った。
かすかに震えながら顔を上げ、声の方向を向く。
幻覚にしてはあまりに鮮やかな姿がそこにあった。先ほどまで強烈に思い描いていた青年が、開いた扉の隣に立っている。
飢えで過敏になった感覚は、青年の呼吸を、肌の匂いを感じ取る。生々しい現実を突きつけてくる。
「な、ぜ……」
ヴィヴィアンはひきつった喉でそう絞り出す。
――アンナと共に、輸送船に乗り込ませた。海辺で見届けた。
そのはずなのに。
タウィーザは一歩踏み出す。その足取りは確かで、恐怖を覚えていないことも、幻などではないことも教えてくる。
「あんたもとんだお人好しだな。あんな幼稚な、帰る振りでごまかされたのか? 俺をわざわざここへ送り届けてきたやつらが、俺をそのまま送り返すとでも思ったのか?」