堕ちた聖女は贄の青年に誘われる6

 ヴィヴィアンの体が震えた。心臓を鷲掴みにされたかのように息が詰まる。
 ――ジュリアス。
 自分を排除しようとする者たちから、護ってくれた。かつての婚約者。離れていても、ずっと気にかけてくれている。

 だから、いつか。
 いつか彼が迎えに来てくれるのではないか。
 ここから連れ出して、元の世界へ戻してくれるのではないか。

 ――そんなかすかな希望は、確かに心の奥底にあった。

 ヴィヴィアンはタウィーザを振り払おうと早足に歩いた。振り向けば過去を突きつけられ、囚われてしまう気がした。
 だが――自分に、逃げる資格などあるのだろうか。

 敵であったとはいえ、タウィーザの同胞を殺したのは自分だった。
 ふいに、敵を殴ったときの、あの鈍い肉の感触が手に蘇って背が震える。
 自分が滅ぼした部族の残党がすぐ側にいるのに、そこから目を背けることなど自分に許されるのか。

 ヴィヴィアンの足は重く、鈍くなってゆく。やがて砂の重みに耐えかねたように立ち止まり、ゆっくりと振り向いた。
 ずっとついてきたというように、タウィーザはすぐそこにいた。

「――復讐を望まないと言っていたわね。それは、現状の……奴隷の身になって無理だから、ということ?」

 タウィーザは肩をすくめた。さほど気乗りしないとでもいうような仕草。なぜそんなことを聞くのか、とその目が問うている。
 ヴィヴィアンは一度息を吸い、言った。

「奴隷の身でなければ、いますぐ私の心臓に剣を突き立てたいのではないの」

 青年の青白い瞳が、一度瞬いた。かと思うと、一歩、踏み出した。

「……あんたは」

 さく、と砂が音をたてる。タウィーザに一歩分距離を詰められ、ヴィヴィアンは思わず後退しそうになる。
 だがそれ以上を、意思の力で踏み止まった。
 揺らめく稲光のような目を見つめ返す。

「何のために、戦ったんだ?」

 ――ざざあ、と波の音がする。
 ヴィヴィアンは一度息を呑み、言葉を押し出す。

「……守りたいものがあったからよ」

 ざく、と砂を踏む音。タウィーザがまた近づく。

「その守りたいものは、あんたを守ってくれたか? あんたに応えてくれたか?」

 静謐な、けれどこのうえなく冷たい声がヴィヴィアンを穿つ。
 鋭い痛みを、ヴィヴィアンは唇を引き結び、数度瞬きをして耐えた。
 波の音にタウィーザの足音がかき消される。

「それでも、俺が復讐を望めば……あんたはいまここで俺に殺されるか?」

 ヴィヴィアンはかすかに肩を揺らした。
 日に焼けた腕が首に伸びてくるのを、とっさにつかんだ。だが、すぐに手から力が抜けてゆき、色濃い肌の手が、太い輪のように首にかかるのを許した。
 ――タウィーザはまだ、力をこめない。

「哀れな聖女。あんたは守りたいもののために、自分の身を捧げたというのにな」

 ざあ、と海の声が響く。
 ヴィヴィアンは静かに目を閉じる。

 あまりにも唐突に、死が間近にやってきたような気がした。
 ――だが、考えてこなかったわけではない。
 否。何度も考えた。ただそれを実行に移すだけの、最後の一線を自分で踏み越えられなかっただけだ。
 だがこの先、生きたいのかと問われればわからなかった。

 いっそ――何もかもから解放されるには、この方法のほうがよほど確実なのかもしれない。
 タウィーザの手を力ずくではねのけることはできる。だが、そうしなかった。

「俺は見ていたよ、戦場のあんたを」

 ふいに頬を撫でる指があって、ヴィヴィアンははっと瞼を持ち上げた。
 そして息を止める。

 息のかかるほど近くに、薄青に光る目があった。その左目の茨が鮮やかに見え、絡めとられるような錯覚。

 ――戦場。
 あの――異形の血によって獣も同然に振る舞った姿を見られていたのか。味方にさえおそれおののき、忌まれた姿を。

 かっと激しい感情がこみあげ、ヴィヴィアンは息を詰める。羞恥なのかもっと別のものなのかわからない。
 醜い女だと、タウィーザは嗤っているのかもしれない。どんなに取り澄ましても、本性はあんなものだと。

 だが、突然輪郭に熱さを感じた。
 いつの間にか、首にかかっていた両手が這い上がり、輪郭に触れていた。
 タウィーザの唇が笑みをいている。冷たく暗い笑み。なのに――それが嘲笑に見えないのは、皮肉に見えないのは。

「あんたに剣なんて突き立てない。そんなこと、するかよ」

 ささやき。
 ふ、とヴィヴィアンの唇が濡れた。
 一瞬時が止まる。

 何が起きたのかわからなかった。
 唇を濡らす、柔らかなものがタウィーザの唇だとわかった瞬間、ようやく青年の体を突き飛ばしていた。

 後退すると砂に足をとられてよろめき、信じられない思いで青年を見る。手の甲で唇を拭う。

「ははっ!」

 タウィーザは声をあげて笑った。何がそれほどおかしいのか、そのまま腹を抱えて転がりそうな勢いだった。

 ヴィヴィアンは混乱したまま、踵を返して走った。背中に、おかしなほど快活な笑いを聞いていた。

(な……何なの……っ!?)

 唇を何度も拭う。だがその手がかすかに震えていた。わけがわからない。なぜ。どうしてあんなことをした。
 こちらの精神に打撃を与えるためだけに行った、なんの意味も無い行為なのか。

 だがそれにしては、ヴィヴィアンはあまりにも不慣れだった。
 頭の中がかき乱される。

(――っ)

 何の意味も無い、何もなかった。忘れてしまえと自分に言い聞かせる。記憶の底に追いやろうとする。
 ――タウィーザがここに来てから、封じ込めていた過去をひっくり返され、心を乱されるばかりだ。

 波の音が後方に遠ざかってゆく。
 次の満月の前に、アンナを退避させに輸送船がやってくる。
 そのときに、タウィーザも必ず送り返す。そう決めた。

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