ヴィヴィアンの体が震えた。心臓を鷲掴みにされたかのように息が詰まる。
――ジュリアス。
自分を排除しようとする者たちから、護ってくれた。かつての婚約者。離れていても、ずっと気にかけてくれている。
だから、いつか。
いつか彼が迎えに来てくれるのではないか。
ここから連れ出して、元の世界へ戻してくれるのではないか。
――そんなかすかな希望は、確かに心の奥底にあった。
ヴィヴィアンはタウィーザを振り払おうと早足に歩いた。振り向けば過去を突きつけられ、囚われてしまう気がした。
だが――自分に、逃げる資格などあるのだろうか。
敵であったとはいえ、タウィーザの同胞を殺したのは自分だった。
ふいに、敵を殴ったときの、あの鈍い肉の感触が手に蘇って背が震える。
自分が滅ぼした部族の残党がすぐ側にいるのに、そこから目を背けることなど自分に許されるのか。
ヴィヴィアンの足は重く、鈍くなってゆく。やがて砂の重みに耐えかねたように立ち止まり、ゆっくりと振り向いた。
ずっとついてきたというように、タウィーザはすぐそこにいた。
「――復讐を望まないと言っていたわね。それは、現状の……奴隷の身になって無理だから、ということ?」
タウィーザは肩をすくめた。さほど気乗りしないとでもいうような仕草。なぜそんなことを聞くのか、とその目が問うている。
ヴィヴィアンは一度息を吸い、言った。
「奴隷の身でなければ、いますぐ私の心臓に剣を突き立てたいのではないの」
青年の青白い瞳が、一度瞬いた。かと思うと、一歩、踏み出した。
「……あんたは」
さく、と砂が音をたてる。タウィーザに一歩分距離を詰められ、ヴィヴィアンは思わず後退しそうになる。
だがそれ以上を、意思の力で踏み止まった。
揺らめく稲光のような目を見つめ返す。
「何のために、戦ったんだ?」
――ざざあ、と波の音がする。
ヴィヴィアンは一度息を呑み、言葉を押し出す。
「……守りたいものがあったからよ」
ざく、と砂を踏む音。タウィーザがまた近づく。
「その守りたいものは、あんたを守ってくれたか? あんたに応えてくれたか?」
静謐な、けれどこのうえなく冷たい声がヴィヴィアンを穿つ。
鋭い痛みを、ヴィヴィアンは唇を引き結び、数度瞬きをして耐えた。
波の音にタウィーザの足音がかき消される。
「それでも、俺が復讐を望めば……あんたはいまここで俺に殺されるか?」
ヴィヴィアンはかすかに肩を揺らした。
日に焼けた腕が首に伸びてくるのを、とっさにつかんだ。だが、すぐに手から力が抜けてゆき、色濃い肌の手が、太い輪のように首にかかるのを許した。
――タウィーザはまだ、力をこめない。
「哀れな聖女。あんたは守りたいもののために、自分の身を捧げたというのにな」
ざあ、と海の声が響く。
ヴィヴィアンは静かに目を閉じる。
あまりにも唐突に、死が間近にやってきたような気がした。
――だが、考えてこなかったわけではない。
否。何度も考えた。ただそれを実行に移すだけの、最後の一線を自分で踏み越えられなかっただけだ。
だがこの先、生きたいのかと問われればわからなかった。
いっそ――何もかもから解放されるには、この方法のほうがよほど確実なのかもしれない。
タウィーザの手を力ずくではねのけることはできる。だが、そうしなかった。
「俺は見ていたよ、戦場のあんたを」
ふいに頬を撫でる指があって、ヴィヴィアンははっと瞼を持ち上げた。
そして息を止める。
息のかかるほど近くに、薄青に光る目があった。その左目の茨が鮮やかに見え、絡めとられるような錯覚。
――戦場。
あの――異形の血によって獣も同然に振る舞った姿を見られていたのか。味方にさえおそれおののき、忌まれた姿を。
かっと激しい感情がこみあげ、ヴィヴィアンは息を詰める。羞恥なのかもっと別のものなのかわからない。
醜い女だと、タウィーザは嗤っているのかもしれない。どんなに取り澄ましても、本性はあんなものだと。
だが、突然輪郭に熱さを感じた。
いつの間にか、首にかかっていた両手が這い上がり、輪郭に触れていた。
タウィーザの唇が笑みを佩いている。冷たく暗い笑み。なのに――それが嘲笑に見えないのは、皮肉に見えないのは。
「あんたに剣なんて突き立てない。そんなこと、するかよ」
ささやき。
ふ、とヴィヴィアンの唇が濡れた。
一瞬時が止まる。
何が起きたのかわからなかった。
唇を濡らす、柔らかなものがタウィーザの唇だとわかった瞬間、ようやく青年の体を突き飛ばしていた。
後退すると砂に足をとられてよろめき、信じられない思いで青年を見る。手の甲で唇を拭う。
「ははっ!」
タウィーザは声をあげて笑った。何がそれほどおかしいのか、そのまま腹を抱えて転がりそうな勢いだった。
ヴィヴィアンは混乱したまま、踵を返して走った。背中に、おかしなほど快活な笑いを聞いていた。
(な……何なの……っ!?)
唇を何度も拭う。だがその手がかすかに震えていた。わけがわからない。なぜ。どうしてあんなことをした。
こちらの精神に打撃を与えるためだけに行った、なんの意味も無い行為なのか。
だがそれにしては、ヴィヴィアンはあまりにも不慣れだった。
頭の中がかき乱される。
(――っ)
何の意味も無い、何もなかった。忘れてしまえと自分に言い聞かせる。記憶の底に追いやろうとする。
――タウィーザがここに来てから、封じ込めていた過去をひっくり返され、心を乱されるばかりだ。
波の音が後方に遠ざかってゆく。
次の満月の前に、アンナを退避させに輸送船がやってくる。
そのときに、タウィーザも必ず送り返す。そう決めた。