朦朧としていても、意識はあった。
それを手放してしまえば、きっとタウィーザの命をも奪ってしまう。
押し流される寸前で、異形の本能に抗い続けた。
理性の力が再び上回ったとたん、ヴィヴィアンは首筋から顔を引き剥がした。
「タウィーザ……!」
青年の顔を見上げる。端整な顔は青白くなっているように見えた。
それでも腕は体を抱いたまま、離そうとしない。
仄青い目がゆっくりと瞬き、ヴィヴィアンを見る。
血の気を失った顔で、タウィーザはそれでも不敵に笑った。
その笑みが、強くヴィヴィアンの胸を衝いた。抱きしめる腕の温かさが、触れる体の熱がとたんに強く感じられた。
なぜか――目の奥が熱くなって、とっさにうつむいた。
うずくまって孤独に耐え、強ばっていた体がゆっくりと解かれてゆく。
タウィーザが立ち上がろうとしたので、ヴィヴィアンも一緒に腰をあげた。
立った瞬間、タウィーザがふらつき、ヴィヴィアンは即座にそれを支えた。
熱く大きな体は支えているヴィヴィアンを包むかのようだった。
「どうして……ここに? もうジュリアスたちが来ているの?」
「まだだ。だがすぐに追ってくる。行くぞ」
ジュリアスの名を出したとたんタウィーザは不快げな顔をし、ヴィヴィアンに支えられているのか抱え込んでいるのかわからない恰好で部屋を出た。
廊下を出て階段を降りる。そのまま玄関へ向かった。ヴィヴィアンはそこでようやく少し思考を取り戻す。混乱する。
――追いつく。行く? どこへ。
「待って! どういうこと、あなた、ジュリアスたちから逃げてきたの?」
「当たり前だ。いいから来い」
「来いって、どこへ……!」
引きずって館から出ようとする力に、ヴィヴィアンはとっさに抗った。
タウィーザは鋭く舌打ちした。腕はつかんだままに少し体を離すと、稲妻のような瞳でヴィヴィアンを射た。
「いいか、いますぐ決めろ。あんたの選択肢は二つ。ここでこのまま一生あの男に利用されて飼い殺しにされるか、俺と一緒にここを出るかだ」
鋭く力に満ちた声は、天啓のようにヴィヴィアンの魂に響いた。
頭が揺れる。
ここから出る。
ジュリアスではない人間と。
考えてもみないことだった。ここから出ることは考えても、こんなふうに手を引いてくれる人間のことは思い浮かびもしなかった。
「ここを出たくないのか」
雷光のように、タウィーザの言葉が脳裏に閃く。
ヴィヴィアンは言葉に詰まる。
――異形の血。満月のたびに訪れる苦痛。人を近づけることができない。敵を殺めた過去。おそれの目。自分を拒絶する世界。
そんなものが次々と浮かんで、体をがんじがらめにする。自分は外の世界では拒絶される。
唇をかすかに震わせると、腕をつかむ手が力を強めた。
「あんたの中のタハシュの血を、他の奴らは疎み、あるいは都合良く利用しようとするだろう。だが俺は違う」
ヴィヴィアンは弾かれたようにタウィーザを見た。顔色は優れなくとも、その青白い目は強い輝きに満ちていた。
「俺は《タハシュの民》だ。神を信じてるわけじゃないが、王国の人間が汚れた血と呼ぶなら、《タハシュの民》にとっては聖にして誉れなる血だ。あんたはタハシュに選ばれ、適応した」
ヴィヴィアンは言葉を失った。見開いた目いっぱいに、雷光の目をした青年の姿だけが映った。
大きく頭を揺さぶられるような衝撃。その衝撃で目の奥が強く揺れ、感情が溢れそうになった。
そうだ。
――タウィーザは、《タハシュの民》だ。少なくとも彼だけは、神であるタハシュの血を、忌むわけがない。
だから、自分にも血を与えたのか。
だが、自分は――彼の同胞を殺めたというのに。
タウィーザの目の強い光は、研ぎ澄まされた輝きはどこから来るのだろう。
「俺はあんたの贄になっても、あの男のためにあんたを働かせる餌じゃない。俺はこの先、あんたにこの体にある限りの血をくれてやる。――代わりにあんたは何をくれる?」
閃く雷のような目が見ている。
ヴィヴィアンは答えられない。世界がまた揺れる。
タウィーザが揺らす。
こんな眼差しを、こんな言葉を向けてくる者はいままで誰一人としていなかった。ジュリアスでさえ、自らの血を与えるなどということはしなかった。
――ジュリアスがちらつかせた地位や名誉など、タウィーザがくれたものに比べればどれほどの意味があるのか。
タウィーザはヴィヴィアンの拒否を力尽くではねのけ、血を与える。
満月の苦痛によりそい、抱きしめて離れない。
タウィーザの強さは、その熱は孤独の冷たさを溶かす。
――自分は何を返せるのか。
「なぜ……どうして、あなたはここまでしてくれるの。私は……タハシュの血を受けたということ以外、あなたに返せるものがないのに」
絞り出した声は、かすかに震えていた。入り交じり、乱れた感情で胸が塞がれ、言葉がうまく出てこない。
タウィーザは形の良い唇の端をつりあげている。
「馬鹿言うな。タハシュの血なんかに価値はない。俺はずっと、ただ一つの見返りを求めてる」
ヴィヴィアンは息を飲む。神(タハシュ)の血は尊いといった口で、価値はないと言うタウィーザに困惑する。
だが、この体に植えた神の血ではないのだとしたら。
タウィーザがこれまで何かを求めたことなど一度もない。
――タウィーザが求めているのは何なのか。
そう問おうとしたとき、タウィーザはつかんでいた腕をふいに放すと、その両手でヴィヴィアンの顔をつかんだ。
青みがかった目が降る。
「あんたの身と魂だ」
ヴィヴィアンは、大きく目を見開いた。全身にさざなみがはしったあと、動かなくなる。
皮膚の下に、血肉の中に、もっともっと深いところにタウィーザが浸透してくる。
薄青に光る目がヴィヴィアンを貫く。
「ヴィヴィアン。あんたのすべてを俺によこせ。――すべてだ」
来い、とタウィーザが再び腕をつかみ、引いてゆく。
ヴィヴィアンはその強引な誘いにされるがままになる。
頭が半分痺れているようだった。
だが言葉とは裏腹に、タウィーザの手は、まるで子供が大切なものを離すまいとするようにがむしゃらだった。
そう気づいたとたん、ヴィヴィアンはかすかに笑った。そして、不思議なほど静けさに包まれ、自分の心の声が聞こえた。
(……他にないもの)
タウィーザに与えられるものは他にない。
そして自分を必要としてくれるなら――ジュリアスよりも、タウィーザのほうがずっといい。
タウィーザの手を引き剥がす。
タウィーザの眉が一瞬はねあがったが、ヴィヴィアンは答える代わりに、自分から青年の手を握った。
鋭い目が少し見開かれる。その目に向け、ヴィヴィアンは言った。
「――行くわ。あなたと一緒に」
その先がどこであろうとも。
タウィーザが微笑する。征服者の、勝者の笑みを銀の月光が照らしていた。
扉が開かれる。
全身を戒めていた見えない鎖を引きちぎるように、ヴィヴィアンは足を踏み出した。
重ねたタウィーザの手は熱かった。