堕ちた聖女は贄の青年に誘われる15

 アンナとは、短い別れの挨拶を交わした。――いつかはそうしなければならないと思っていたが、こんなに早くそのときがくるとは思いもしなかった。
 アンナも事態がのみこめていないらしく、ただ純粋に、

「またお会いできますか?」

 と聞いた。
 胸を締め付けられるように感じながら、ヴィヴィアンは微笑んだ。

 そうして二人がジュリアスの船で海の向こうへ消えると、静かな館に一人になった。
 頭が痺れ、目の眩むような静けさがあった。

 もともと身の回りのことは自分でできるから、侍女がいなくなって困るということはさほどない。この館には暮らしに必要なものがほとんどすべてそろっている。
 ヴィヴィアンはただ、淡々と時を過ごしはじめた。

 

 完全な一人になると、死について想うことが増えた。
 波の音だけがヴィヴィアンの話し相手になった。

 柔らかい砂の上に座り、ただぼんやりと海を眺める。
 ――このまま命を絶ってしまおうか。
 戦が終わり、自分をとりまく何もかもが変わったときにはよく考えたことだった。

 人の血を欲する自分はあまりに異形だ。五年間はなんとか生き延びられたが、この先どうなるかはわからない。
 敵の血で魂まで染まり、命を奪った記憶が心身を作り替えてしまった。その証に、聖女としてかつてそなえていた癒やしの力はなくなってしまった。

 ヴィヴィアンには両親の記憶がない。
 聖女の素質があるとわかった者の大勢がそうであるように、すぐに両親の元から引き離されて修道院に入れられ、神に対する敬虔な信仰心を植え付けられた。つづいて王立の聖女養成機関に入れられる。そこで、聖女としての異能を磨くのだ。

 友人と呼べる者はいた。養成機関で切磋琢磨して過ごした者たちがそうだった。
 その中にはジュリアスの従姉妹という少女がいて、彼女を通じてジュリアスと知り合い、恋に落ちた。

 いま考えれば、聖女のひとりとはいえ、平民出身の自分が彼と婚約できたこと自体、奇跡のようなことだっただろう。
 もとから、無理のある婚約だったのだ。あとになってそう考えられるようになった。

 あるいは、タハシュの力に手を出したのも――それによって戦果を得て少しでも周りに認められればという思いも、あったのかもしれない。

 あのときジュリアスの制止に従って、タハシュの血を体内に入れなければ。
 そう思うことはある。何度も、何度も思ったことはある。
 たとえ意味の無い仮定だとはわかっていても。

(……ジュリアスはもう、私の知っているジュリアスじゃない)

 ただその事実だけを受け止め、それ以上を考えないことにした。
 自分がいま生きているということは、結局最後の一歩を踏み越える勇気がなかったということなのだろう。

 絶望で麻痺し、時がその上に降り積もっていく、何もかもが曖昧になる。気づけば月日が飛んでいる。

 砂の上に、ヴィヴィアンは横たわった。黄昏れてゆく空を見る。
 ざあ、ざざあ、と波の音がする。
 体に触れる砂はほのかなぬくみを持って、どこか肌の温度を思わせた。
 ――これよりもっと熱い体の持ち主を知っている。

 知らず、唇に指を触れさせた。

(……タウィーザの体は、熱かった)

 唇を一度なぞったあと、砂に手を放った。
 あの甘く酔うような、それでいて舌を焼くような血の味。
 それに相応しい、熱を持った体だった。

 ――ジュリアスでさえ、あんなふうに抱きしめてくれたことはない。
 結局、タウィーザが何を思い、いったい自分をどうしたいのかわからなかった。
《タハシュの民》の生き残りだというから、自分への復讐を望んでいるものと思っていた。
 だが言葉で嬲られることはあっても、タウィーザが殺意を向けてきたことはないし、暴力をふるおうとしたこともなかった。
 復讐は望んでいない、と彼は言った。戦場での自分の姿を見たと言っていたのに。

(……タウィーザは、何を望んでいたのかしら)

 いまになって、もっと話をしなかったことに少しだけ後悔した。
 ふいに抱きしめられるとわけがわからなくなって、突然唇を奪われればそれ以上考えられなくなった。
 ――それでも、いくつかわかることがある。

(……タウィーザは、私を真正面から見た)

《血塗れの聖女》と真正面から呼んで憚らず、血への飢えにも怯えることなく自分から差し出すことさえした。
 そして現実を突きつけることでヴィヴィアンの中にあったジュリアスへの思いの残滓を消し飛ばし、ジュリアスの耳触りのいい言葉も暴いた。

 そう思うと、力のない笑いがこぼれた。

(本当に……、何がしたかったんだか)

 ヴィヴィアンは目を閉じる。瞼越しに感じる光は昼時よりもずっと弱かった。

 

 冷たい黄金の月が空に浮かんでいる。
 その姿を隠すものはなく、夜の全ては、月明かりを引き立てるための舞台装置にすぎぬようだった。

 ヴィヴィアンは一人、館の空き室で椅子に座っていた。地下倉には、もうほとんどボトルが残っていない。
 今回、あのボトルの補充を受けられなかった。――それもおそらくジュリアスの意向だろう。

(大丈夫……何も変わらない。いつもと同じ……)

 満月に一人になるのは、これまでと変わらない。
 呼吸に意識を集中する。激しくなってゆく飢えから意識を逸らす。

 ――痛みは人を苛む。
 本能からくる恐怖や怯えが、意思を蝕み弱らせる。
 ジュリアスはたぶん、それを狙っているのだ。

 満月がもたらす苦痛や不安が、ヴィヴィアンの意思を覆すと思っている。
 この苦痛の循環から抜け出すには、永遠に停滞するようなこの世界から抜け出すにはジュリアスの言う通りにするしかないとでも言うように。

 ヴィヴィアンは膝の上で強く両拳を握った。その拳に目を落とすと、視界が揺れた。目眩がする。唾液が激しくこみあげてくる。

 ボトルの補給を受けられなかったせいで、いつもより更に飢えが酷かった。
 内臓がねじれるようだ。
 握った手が震えはじめる。

 体が思い出す――この耐えがたい飢えが癒された時を。
 タウィーザの熱い体。芳醇な血。
 体が冷たいのに、頭だけが煮立ったように熱い。

 ぐらりと体が傾いだ。
 物音をたて、ヴィヴィアンは椅子から転げ落ちる。床に倒れる。起き上がる力もなく、胎児のようにうずくまった。
 その音を聞くものも、駆け寄ってくるものもいない。

 息が震えた。
 倒れた椅子と体とともに、自分の中の何かまで大きく揺らいだ気がした。
 強く閉じた目から、生温かい雫が溢れる。

 気を失ってしまいたくても、ずきずきと刺すような頭痛が、臓腑をねじられるような感覚がそうさせてくれない。
 世界が揺れ、現実が遠のいては飢えに引き戻され、意識が混濁していく。

(……いつまで)

 いつまで、こんなことが続くのだろう。
 ヴィヴィアンは喉を震わせた。うずくまったまま嗚咽する。

 いっそ、このまま消えてしまいたかった。この苦痛ごと、この胸の虚ごと――。
 だって、こんなにも独りだ。

 床のかすかな振動を、体の接触面に感じた。
 自分以外に物音をたてるものはないはずなのに、扉が乱暴に開かれる音がした。

「ヴィヴィアン!」

 緊迫した叫びが、ヴィヴィアンの胸を貫いた。この場にいるはずのない声。それから荒い足音が近づいてくる。
 とたん、うずくまっていたヴィヴィアンは力強く抱き起こされた。

 ヴィヴィアンは重い瞼を持ち上げ、ぼやけた目で見上げた。
 青白い、雷のような目が見える。それから、甘い肌の香り――熱い体の香り。

「くそっ!」

 タウィーザは悪態をつき、引きちぎるように自分の襟を開いた。浮いた喉仏と鎖骨までが露わになる。

 ヴィヴィアンの喉は、意思とは関係なく鳴った。
 また涙が溢れ、弱く頭を振った。

「い、や……」
「何を言ってる! 早く飲め!」

 まるで抱き寄せられるような形で、首筋に口元を近づけられる。
 激しく唾液がこみあげ、軋む音をたてはじめた口を、ヴィヴィアンは泣きながら閉ざした。
 顔を背ける。震える両手で、男の胸を押し返そうとする。

 もういやだ、と思った。
 これ以上生きていて何になる。人の血で飢えを癒して。こんな、人の血に飢える体で。かつての婚約者にすら異形の力を利用されようとして。

「ヴィヴィアン!」
 
 タウィーザは叫び、だがヴィヴィアンがいやいやと頭を振って頑なに拒むと、舌打ちした。
 それから、自分の右腕に噛みついた。
 小さい傷痕から鮮やかな血が滲み出すと、とたん、目も眩むような芳香がヴィヴィアンを襲った。

 その小さな傷口が、ヴィヴィアンの口に押しつけられた。

「ん、ん……っ!」

 必死に閉ざしても、かすかな隙間からそれは流れ込んでくる。舌に触れたとたん、異形の本能が理性を決壊させようと勢いを増す。

 涙が一筋、頬を伝った。
 押しつけられるうち、ヴィヴィアンの唇がゆっくりと開いた。
 涙に濡れた杏色の瞳に、ぼやけた意思の光が映っている。

 赤い舌先がタウィーザの傷にあてがわれ、ゆっくりとなぞった。肉厚の花弁を思わせるものが、滲み出す赤を貪欲に舐める。

 タウィーザがかすかに体を震わせ、目元が何かを堪えるように歪む。
 赤い舌が蠢く小さな口の中で、軋む音をたてながら犬歯が伸びていく。

 タウィーザは再びヴィヴィアンを抱き寄せた。
 口の前に差し出された熱い首筋に、ヴィヴィアンはもう抗わなかった。

 牙を突き立てられ、《血塗れの聖女》の腕に体を押さえつけられても、贄の青年は聖女の体を強く抱き続けた。

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