私が最後の一人なのだ。
《語り姫》が私以外にもう誰も残っていない。百人もいた語り姫が、いまや私一人なのだ。
ついにこの日がやってきたが、怖いとは思わなかった。百年という時と百人で紡がれようとする壮大な物語の、結末を担うという感動もまだあまりない。
待ちくたびれてしまったのかもしれない。
語り姫は一年に一度、一人が聞皇のもとに召されて一夜を過ごす。そうしていなくなる。
それを九十九人。
私は九十九年待ったのだ。
――こんなことをつらつらと書いて、ふと筆を止めた。
『モモは本当に鈍いんだから』
そんな声を唐突に思い出した。八十姐が言ったのだ。八十姫。黒黒として腰のある長い髪が自慢であった、面倒見のいい、私の仲間。
手鏡を取り出し、自分の顔を映す。
私がこの《奉語宮》に入ったのは十六のときだった。だから暦の上では、私は百十五歳になる。
けれど、鏡の中には一六のときとほとんど変わらぬ自分の顔が見える。
多少は老いているかもしれない。けれど、語り姫としてこの奉語宮に入内したときに、体は時を刻むのをやめる。
――やがて来る、聞皇とのただ一夜のために。
心まで止まっているかといえば、そうではない。ただ、百番目の私には膨大な空白の時間ができた。それは精神という蕾が歪ながらも花開き、朽ちて枯れ、地面に落ちるには十分すぎる時間だった。
鈴りん、と宦官の来訪を告げる音が鳴った。
「百姫、お時間です」
しめやかな声が告げる。
私は筆を片付け、紙を畳んだ。自分の着物、髪や化粧に乱れのないことを確かめてから部屋を出た。
ただ一度だけの正装。結い上げられた髪を飾る、星々のような簪が、歩くたびにしゃらしゃらと繊細な音をたてる。幾重にも色を重ねた着物を、美しく、けれど解きやすいようにとめる帯。口と目元の紅、白粉。
先行する宦官に手に持たれた灯りだけが頼りない光を足元に投げ、長い廊下を照らしている。
聞皇の寝所たる御伽宮へと続く、暗く長い道。
宮殿の中は静かだった。夜も深まった刻とはいえ、みなが寝静まっているわけでもない。
だというのにこの静けさ――死のような静けさだ。
『百姫は、おかわいそうです。最後だから、この道を一人で行かねばならない……』
耳の奥に蘇る、その高い声は九十姫だった。私よりも四つ年下で、語り姫の中でもほとんど最年少だった。
一人、また一人と聞皇のもとに召され、宦官に導かれて夜の廊の向こうへ遠ざかってゆくとき、残された私たちは仲間の後ろ姿を見送ったものだった。美しく着飾り、闇の向こうへ飲み込まれて二度と戻ってこない後ろ姿を。
泣き腫らした目を厚化粧で隠す者もいれば、気丈に笑う者もいたし、諦観もあらわに無表情な者もいた。
みんな――私が見送って、いなくなった。
そしていま、私を見送ってくれる者はいない。
私が百姫だからだ。
入内するときに下賜された《語り姫》の名。入内順にあてがわれる数字。百番目の、最後の語り姫だから百姫だった。
それより以前の自分の元の名前がなんであったのか、いまはもう、あまり思い出せない。
聞皇のおわす御伽殿に足を踏み入れるのははじめてだった。何度もこの日を想像してみたけれど、思ったよりもずっと静かだ。
でも人がいないわけじゃない。気配を殺して無言で立つ護衛の姿や息を潜める侍従の姿がある。
語り姫たちのいる奉語宮は話し好きの女達の集まりであったから、基本的には賑やかだった。
『暗い顔してたって仕方ないわ。いずれ自分の番が来るだろうけど、だからといってその日までずっと下向いて鬱々と過ごすなんてまっぴらよ』
竹を割ったような性格で、はきはきとした声でそう言ったのは五十姫だった。
この奉語宮に入った時点で遅かれ早かれみな同じ結末をたどる。どうせ結末が変わらないなら、それまで陰鬱に過ごすよりも、少しでも明るく楽しく過ごしたほうがいいというのだった。
五十姫のおかげで、私もそういうふうに考えられるようになった。
宦官が立ち止まり、手で促した。
私は無言のままそれに従い、薄い闇の漂う部屋の中に入った。
とたん、重厚で典雅な、だがどことなく甘さのある香の香りが鼻腔に押し寄せ、くらりと目眩がした。
薄闇の中に、濃密な芳香だけが漂っている。
――まるで別世界のようだ。
だが並ぶ者なき聞皇の寝所であるとはいえ、小さな火の灯りごときでは夜の闇を払えないようだった。
四隅に柱と帳をたてられた御帳台を前にして、私は畳に額ずいた。
「――面をあげよ」
機嫌のよさそうな声に、ゆっくりと顔を上げる。
見れば、私の目の前の部分だけ帳が巻き上げられ、その中で一段高い畳の上に、聞皇その人が座っていた。白い寝衣のまばゆさだけが妙に目を射る。
「近う」
私はもう一度額ずき、着物の裾をさばきながらゆっくりと膝行った。
ためらいながらも、聞皇に誘われるまま御帳台の中に進む。
そうしてひとり、この世に並ぶものなき尊いお方と向かい合った。
「ほう、若いの」
聞皇が少し高い声で笑った。
――若い、と私を称したその言葉が皮肉に思えるほど、聞皇は若かった。
やや面長で、色白の顔。ともすれば二十も半ばの貴公子にしか見えない。
けれど――私の目に、その若さはひどく歪で不気味なものに見えた。
若々しい外見とは裏腹に、皮膚の下から老成した――腐敗を思わせる饐えたようなにおいを錯覚するからだろうか。
目に溌剌とした光はなく、そこにあるのは底知れぬ暗さであり、かすかにつりあがった唇に刻まれるのはいくつもの意味を含んだ、老獪な微笑だ。
真白き寝衣に身を包んでいても、この部屋の闇よりも、よほど暗い。
ぶるりと身が震える。得体の知れぬものと向き合っているかのような威圧感。
聞皇は、百人に及ぶ語り姫の物語りをすべて聞いておられる。
つまり、百年以上は確実に生きておられた。
「そなたが百人目。その栄誉を誇るがよい。今宵は我のために言祝げよ」
貴公子然とした尊人の声は上機嫌だった。
は、と私は答えて、だがその声が震えていた。
冷たい汗が背を伝っていく。聞皇のお声には、それ自体になにか力でもあるのだろうか。
とてつもない存在と相対しているという感覚が、ずしりと臓腑に染みる。
百人目の語り姫。それが本当に栄誉で、また聞皇のために物語りすることはこの上ない栄誉だと――そんなふうに思えるような気がしてくる。
『あんな男、化け物じゃないか』
耳に、四五姫の吐き捨てるような声が蘇った。それが、はっと胸を刺して怖じ気づく心を戒める。
五十姫よりも男まさりで、喜怒哀楽をはっきりと顔に表していた四五姫。
奉語宮の中だけのことだったけれど、神にも等しい聞皇をあの男などと呼んで、他の語り姫を慌てさせていた。
――そうだね、と私は胸の中で四五姫に答える。
いま、この目の前にいるとてつもないお方は、至高の存在であり、類を見ない化け物でもあるのだ。
「どうした、鶯。さあ、早く囀るがよい」
あくまで悠然と、聞皇は催促する。
鶯。それは、物語りをするためだけに生かされている語り姫の異名だ。
語り姫が語り終えればどうなるかわかっているのに、聞皇はいかなるためらいも見せずに急かす。
語り姫自身にも恐怖や怯えといったものを持つ存在であるなどとは、まるで思っていないのように。
すべての存在は、自分という至高の存在のために奉仕して、そのために死んでいくのが当然だと思っているのだろうか。
『モモ、あなたは最後。だから一番つらくて寂しいかもしれない。けれどこうも考えることができるわ。あなたには、私たちにはない大きな選択肢がある――』
落ち着いた、三十姫の声。理知的な性格が声にも滲み出ていた。
百姫である私にモモと愛称をつけてくれたのも彼女だった。年若い語り姫たちをなだめ諭し、自分は毅然と、聞皇に召されて行った。
九十九人の私の仲間。気の合う人もいれば合わない人もいて、敵対している人すらいた。
けれどみんな、私と同じ語り姫だった。
いま、彼女たちのことが次々と脳裏に浮かぶのは、どうしてなのだろう。
ただの感傷なのか。でも、自分でも知らない、どこか意識の深く底知れぬところから、無数の水泡のように浮かび上がってくるのだ。
百番目の私は――彼女たちの結末を、みな見届けたからなのか。
すう、と大きく息を吸った。
「百番目の語り姫が、この世に並ぶものなき聞皇に奏上いたします。これより語るは、百番目の物語。積まれ紡がれ織り上げられた、大きな物語の最後にございます――」
一度発してしまえば、声は滑らかな楽の音のように広がり、御帳台の中に静かに満ちた。