――その昔。どこか、遥か遠い地の話にございます。
そこには、人を喰らう王がおりました。
いえ、いえ、何もその王は、歯をたててばりばりと頭から人民を喰らったのではありません。
むしろ彼の地は長く平和で、静謐に満ちておりました。
民はことごとく王をおそれ敬い、王のおわす宮を仰ぎ見ることさえはばかり、叛乱などと考える者もいなかったのでございます。
王はおそろしき神である。民はそれを知っていたのです。
ゆえに、王の威光が地を統べ民を抑えた、そう申してよろしいでしょう。
では、かの王はなぜ人を喰らったか? どのように喰らったのか?
ええ、決してただ空腹を満たすためなどではありませんでした。美食に飽いた末に珍味を求めたということでもございませんでした。
王は、とある壮大な目的のために、そうしたのでございます。
人を喰らったのは、その目的のために必要であったからでございます。
言霊。
言葉には呪が宿ると申します。言葉は人の魂を染め、人を縛ります。
その使い手が善き言葉によって祝えば言祝に。
その使い手が悪しき言葉によって呪えば呪言に。
そして。
数多の言霊を束ね、壮大な呪力とするのを物語ると申します。
物語るとは、膨大な呪力を放つことにほかなりません。
優れた語り手は優れた呪力を持ち、聞くものを引き込み、操ることさえ可能にします。
かの王はそこに目をつけたのでした。
物語ることによって呪力が発生し、人を操るというならば――優れた語り手の物語りによって、力を得ることができるのではないか?
まさしく慧眼でありました。
かの王は、物語りによって己が野望を叶えることにしたのです。
――不老不死という、壮大な野望を。
ええ、けれど、その途方もない野望を叶えるには、いかな優れた語り手を集めたところで一人や二人では到底足りません。
ならば、膨大な数を集めてしまえばいい。
一人、また一人と物語りをさせ、何十何百と試したのち、王はついに気づきます。
――一人の語り手を使い潰せば、一年寿命が延びることに。
優れた語り手が、己のすべてを賭し一夜かけて言祝ぎの物語りをする。
それによって、一瞬の火花にも似た、強い言霊の呪力が生じます。その正の呪力が、聞いた相手の寿命を延ばすのです。
ただし、一年だけ。
一夜をかけ、己のすべてを賭して語った語り手は、言霊を使い果たして死に至る。
それでも伸ばせる寿命は一年だけ。
無情にございます。非業にございます。
けれど――それでも、命は等価ではないと王は考えられた。
王という無二の存在を延命させるためならば、他の命をどれだけ消費しても構わないと。
語り手を百人集めれば、己の寿命を百年延ばすことができるのですから。
そうして百人の語り手が集められました。
同時に王は、己以外の者に物語りの力が及ぶことをおそれ、召した語り手以外に物語ることを禁じました。
事実でないこと、己が頭が生み出した事実ではない事柄を表現することは禁じられました。
何の因果か、優れた語り手は女性に多かったと申します。いえ、王は殿方であられましたから、寝物語に聞くにも女人のほうが好ましいと思われたのでしょうか。
それに、女は子を産むことができましょう。子を産まなければ――強い呪力を代わりに産むことができるのかもしれませぬ。けれど男の語り手もおりましたから、定かではございませぬ。
兎も角。
語り手は一個の“物語”そのもの。
物語とは――つまるところ人の生そのものの写しにございます。
そもそも人間とは、人生という、一つの物語、己の外側に一個の大きな繭を紡ぎ続ける蚕にも似ております。
百人そこに集めれば、百通りの繭が、物語がそこに生まれていると申せましょう。
さて、斯様にしてこの王は、百人の語り手を消費して百年の延命を成しえました。
この百を繰り返していけば永遠の命をも得られる。王はそう考えました。
けれど、天がそれを許さなかったと申しましょうか。
王といえどももとは人。
そう、人の器にためられる呪力、物語には限度があったのでございます。
百の物語、百年の延命だけが、天が人にお許しになった限度にございました。
それ以上は、二百の語り手を使い潰そうと、千の語り手を潰そうと、一年たりとも寿命が延びることはなかったのです。
この世にはすべて正と負があり、釣り合いがとれるようにできております。
延命は言祝ぎの正の力によってなされるもの。それが無限になしえてしまえば、正が強くなりすぎて負との均衡が崩れてしまいます。
百年を延命した王も、百年と少し後に崩御しました。王が生きられたのは、元の天寿と百年の延命を合わせた時間でございました。
その子が次の王として立ち、また百の語り手を集めて命を延ばしました。
その王の子も、その子の子も、子の子の子も……。