アルシュと出会う前まで、異世界に呼ばれる前まで、結月はごく普通の女子大生だった。
何ものにも執着したことはない。
周りに流されるまま、高校では髪を染め、制服をアレンジしスカートの丈は詰め、化粧を覚え、短大に入ってピアスを開けた。まつげサロン、ネイルサロンに通ったのもすべて周りに合わせるためだった。
バイト代は大半が服と化粧品に消えた。多少懐が潤ったときはブランドバッグや財布に大枚をはたいた。
すべて、周りから見て“普通”になるために。笑われないために。浮かないようにすることだけが目的だった。
一定の成果はあった。
高校ではじめて彼氏ができた。
別に熱烈な恋愛をしたわけではない。ただなんとなくそういう流れになった。
彼氏がいなくて格好が付かない自分と、彼女がいないのが悩みである相手とが出会った、それだけだった。
一通りのことはしたが、体の関係にいたるまでにあっさりと別れた。
理由は、相手に本当に好きな女性ができたからだ。
ごめん、と謝られても、結月は怒ることも悲しむこともしなかった。そっか、じゃあ、と言っただけだ。
それきりだった。
短大のサークルに入ってから、またお互いにそれとなく意識する相手ができた。
意識、というのはつまり彼氏彼女の関係になれそうなという意味だ。
体面、見栄、そういったものを満たして普通になるための。
このときまでまだ、結月はまともに誰かを好きになったことがなかった。
何かを強烈にほしいと思ったこともなかった。周囲に合わせること、それが唯一の指針だった。
その相手と付き合う前に、ある冬の暗い夕暮れに、結月は異世界に召喚された。
短大の帰り道。暗く、まるで真夜中であるかのように錯覚させる空と、世界中にひとりぼっちみたいな錯覚を抱きそうなほどにたまたま周囲に誰も人がいなかった瞬間――地面に、いきなり強烈な光があった。
光は結月の足元に迫り、飲み込んだ。
そうして結月は異世界に降り立ち、《聖女ユヅキ》になった。
疫病が大流行するこの世界を救ってほしい――そう言われたのだ。
結月は医者の家系でもなければ医学生などというエリートでもない。
ならいったいなぜ世界を救うことができたのかと言うと、たぶん異世界人だからだろうと思う。
違う世界の人間だから、疫病にはかからなかった。
免疫、耐性、という言葉がなんとなく頭に浮かんだ。
そして違う世界の人間が疫病を次第に収束させた。あるいは結月が地球から持ち込んだ何かが効果を発揮したのかもしれない。
目には見えない微粒子、微生物、そういった何か。
結月はただおぼろげにそう理解している。具体的には、何もわかっていないに等しい。
それでも世界は救われたし、結月はこの世界に残ることを望んだ。
――アルシュと出会う前までは、早く帰りたいと思うばかりだったのに。
あの孤独で美しいグリフォンと出会ったのは、召喚されてしばらくしたときのことだった。
結月の何かが本当に疫病に対抗する力を持っていると認めた王が、信頼の証にと引き合わせてくれたのだ。
王家の宝、絶滅の危機に瀕している幻獣、創造神の眷族とも言われるグリフォン。
アルシュは王宮の奥にある、彼のためだけの厩舎に住んでいた。尊い生き物として丁重に扱われていたから、その体を繋ぎ止めるものはない。
――アルシュもまた、逃げようとする気配や暴れる様子もみせない。
こちらが聖女ユヅキだ、と紹介された。
獣に対してなのに、まるで人間に紹介する言い方みたいだと思ったのを結月は覚えている。
それもすべて、アルシュと目が合うまでのことだった。
琥珀色の目。静かな、だが燃える黄金にも思える双眸。
その瞬間、結月は頭から打ち砕かれた。
膝から崩れ落ちそうになった。全身が熱くなり、血が激しく巡り、速まるばかりの鼓動が全身を打ちのめし、結月に二度目の生を与えたようだった。
結月の世界は激変した。
流されるままだった、曖昧にぼやけた世界は強烈な輪郭と無限の色彩を持った。
欲しい、とはじめて強烈に思った。
強烈な飢餓感。切望だった。
アルシュは人の言葉を理解していた。
そしてただその眼差しだけで、獣と侮った結月の無知を冷ややかに打ちのめしていた。
結月は、特別動物が好きな人間だったわけではない。
仔猫や子犬を可愛いと思う気持ちは人並みにあったが、絶対に飼いたいと思ったこともなければ、特別興味を惹かれたこともない。
鳥類、猛禽――幻獣などといったものは尚更だった。
だから結月自身、はじめは混乱した。アルシュに出会って以来おかしくなっている自分に戸惑った。
かつてない執着、独占欲が、ほとんど恋愛感情にも近いものだと気づいたのは少ししてからだった。
気づいたとき結月に訪れたのは納得と、戦慄だった。
――自分は獣に、人間以外のものに恋愛感情を抱いている。それも極めて強い、自分ではどうしようもないほどのものを。
だがそう自覚したところでどうにかなるものではなかった。
ただアルシュが欲しいから、聖女としての役目を果たそうとはじめて自発的になった。
役目を果たせば、世界を救うなんてことをすれば――きっと褒美がもらえる。
その褒美に、望むのだ。
はじめての恋だった。
結月の行動原理であった強固な常識、普通であることを過剰なまでに求める感覚がびりびりと悲鳴をあげ、軋んで、そして砕け散っていった。
『聖女様にこんなことは言いたくないが……それでも、あんたおかしいよ』
――狂ってるよ、とカーデムは言った。
筆頭世話役。アルシュの世話を任されていた男。
熱に浮かれたような足取りで何度も通い詰め、座り込んでひたすらグリフォンを物欲しげに見つめる結月を、カーデムは呆れ、やがておそれ、気味悪がった。
そして哀れんだ。
『アルシュは番を求めている。なのに、グリフォンはもうこのアルシュしかいない。アルシュにとってもあんたにとっても不幸なことだな』
あんたも余計に諦めがつかないだろう、とカーデムは言った。
アルシュが番を求めている――結月はそれにショックを受けた。
動揺し、そんなはずはないと否定した。
『なんであんたにそんなことが言える? アルシュは番を求めてる。体から、求愛の臭いを発してるんだ』
知らない知らない知らない――結月は頭を振った。
見たこともない、アルシュの求める番に嫉妬し、だがそんなものは存在しないと気づいて安堵した。
アルシュがどれだけ求めても、アルシュ以外のグリフォンなどこの世界にいないのだ。
カーデムは、そんな結月の気持ちを見抜いた。
そしてまた言う。
お前はおかしいよ――。
(……そう、私はおかしいんだ)
結月はただその事実を受け止めた。『普通』に固執し、周囲から浮くことを何よりおそれていた女子大生はもういない。
アルシュと出会ってしまったから。
アルシュに心を奪われてしまったから。
普通の結月は死んだのだ。