一目見て、殴られたような衝撃を受けた。
くらくらするような感覚、痺れに襲われ、自分ではどうにもならぬほどに目を奪われてその場から動けなくなる。
結月は二十一年の人生の中で、はじめてそれを経験したのだった。
一目惚れ。
アルシュと目があった瞬間のことだった。
「なんでも望みが言うがよい、聖女ユヅキ。大役を果たしたその功績に応じて、能うかぎりのものをお前に与えよう」
玉座の王は、温厚な表情でそう言った。
聖女ユヅキ――それが、この異世界における結月の地位だった。
どこにでもいる短大生だった結月はある日突然、異世界に召喚され、聖女として世界を救ってほしいと言われたのだった。
結月はそれを受け、成し遂げた。
玉座の王を見上げながら、結月は息を飲んだ。
「遠慮はいらぬ。地位でも名誉でも財でも、思いのままだ。反対できるほどの者はいまやおらぬ」
老齢の王は、かすかな皮肉と悲哀の調子を交えて続ける。
この人の好い王は、心労のために実際の年齢よりもずっとずっと老いてしまったのだと結月は思う。
反対できるほどの臣下がいない――大半が、世界を襲った未曾有の危機によって落命したからだ。
結月が聖女として収束させた、《大厄災》――大規模の疫病によって。
(なんでも……)
結月の体にかすかな震えがはしる。きっといまなら、山ほどの金貨も真珠やダイヤやサファイヤやルビーのちりばめられた宝飾品も金銀刺繍と絹のドレスも思いのままに与えてもらえるだろう。
だが、結月にはそれはなんの意味もなさないものだった。
――突然召喚され、聖女なんて大役を背負わされてそれでも使命を果たした理由はただ一つ。
使命を果たしてなおこの世界に留まっている理由。
どうしても欲しいものが、ある。
「では……、一つだけ、いただきたいものがあります」
「一といわず十でも百でも言うがよい。何が望みだ?」
王は皺だらけの顔で笑う。
結月は、高まる鼓動と焦がれる思いのままに口を開く。
「アルシュを――私に、ください」
王は、大きく目を見開いた。
反対できるものがいない――それはおそらく、王その人とて例外ではなかったのだろう。
アルシュは唯一無二の存在で、王のものだった。だが世界を救った聖女になんでも褒美を与えると約束した手前、下賜しないわけにはいかなかったのだ。
結月は望み通り、アルシュを手に入れた。
のみならず、アルシュとともにこの世界で暮らすための館と、身の回りの世話をしてくれるわずかな使用人たちも手に入れた。
そこはかつて貴族の住んでいた建物だったらしいが、主とその一族は大厄災によってことごとく世を去り、引き取り手もいなかったのだという。
広大な敷地内には巨大な厩舎があり、厩舎番が起居する小屋もある。
短大に通いながらワンルームで一人暮らしを送っていた結月からすれば、まさしく異世界の大邸宅だった。
使用人という人種にもはじめて出会ったし、誰かに身の回りの世話をされるのは子供の頃以来だった。
アルシュが厩舎に到着した――。
そう聞いて、結月は館を飛び出し、厩舎に向かった。
大きな厩舎はほとんどが空になっていたが、一カ所だけ清潔な藁や水桶が整えられており、世話係の男が一人立っていた。
男は結月の姿を見て少し慌てたようだったが、結月は構わず近づいた。
男の向こう――区切られ、奥にある小さな窓からこぼれる光を浴びたその存在を見る。
全身に震えがはしり、どろりとした熱が体の奥から溢れた。
「……アルシュ」
かすれた結月の呼び声に、アルシュは琥珀色の目を向けた。
一対の、ミミズクのそれによく似た羽角が緩やかに立っている。
漆黒の体の中で、その巨大な嘴だけが黄色い。雛鳥を思わせる色だ。
だが可愛らしいという印象はない。
アルシュの顔は高貴で精悍な、鷲のそれだった。それもとほうもなく巨大な鷲だ。
結月はこれほど高貴で精悍で、それでいて肌が粟立つほど艶めかしい顔を見たことがない。
艶やかな黒の獣毛に覆われた巨体。しなやかに躍動する筋肉のついた四肢。
後ろ足は巨大な獅子のそれだが、前足は上半分が黒毛に覆われ、下半分は灰色の鳥足である。鋭い鉤爪が鈍色に光り、藁に埋もれている。
そして、背にもまた鷲のそれを思わせる一対の漆黒の翼が生え、厩舎が狭すぎるとばかりに緩やかにおりたたまれている。
(アルシュ……アルシュ……!)
結月は恍惚となる。吐息に熱がこもり、目は彼に釘付けになる。
――アルシュは、グリフォンという種族だった。
ほとんど絶滅したといわれる希少な幻獣種。
結月はアルシュ以外のグリフォンを見たことがない。だがそのグリフォンの中でも、きっとアルシュの美しさは群を抜いているのだろうと確信していた。
頭部から背中、尾にかけてのなだらかな起伏の線は躍動的で雄々しく、堂々とした体に対してやや細くも見える足は艶めかしい。
黒々とした体毛、だが胸のあたりの毛だけが灰色だった。
結月は、そこに顔をうずめてみたい衝動にかられる。手を埋もれさせ指を絡ませ、思う存分触れてみたいと何度思ったか知れない。
前に向かって湾曲した鷲の嘴は磨き抜かれた黄水晶のよう。
孤独なグリフォンは結月を見下ろしている。小象ほどもある大きな体を、静かに、あるいは諦めたようにそこにおさめている。
アルシュは結月に答えない。言葉を発しない。
人間ではないからだ。グリフォンという、まったくの異種だからだ。
結月はそのことに半分安堵するし、もう半分は絶望と焦燥を覚える。
――自分の欲望でアルシュを一方的に所有しても、アルシュは反論しない。
――どんなに惨めに愛を乞うても、アルシュが答えてくれることはない。
だからアルシュはただそこに佇み、結月を睥睨(へいげい)している。
アルシュは獣であって獣でない。非常に聡明な生命体だ。
ゆえに――きっと結月のしたことをわかっていて、軽蔑しているに違いなかった。