聖女が異世界に残った理由3

 聖女ユヅキの出番ももうない。結月自身、表舞台に出て行きたいとも思わない。
 ここには何より欲したアルシュがいた。世話をしてくれる使用人たちの他には結月とアルシュだけの、閉じられた完璧な世界だった。
 ――結婚したのだ、アルシュと。
 結月はそう信じた。あまりに一方的な、妄想にすぎぬものだとしても、それは目眩のするような幸福だった。

 結月はその夜、アルシュのいる厩舎に赴いた。足が勝手に走り出す。
 アルシュがいなくなってしまうかもしれない。逃げてしまうかもしれない。少し離れるだけでそんな不安が無限にふくらむ。

 厩舎は闇に沈んでいる。暗く、まるでそこには何もないかのように。
 結月の手のランタンの明かりだけではあまりに心許なく、闇を追い払うことはできない。
 だが結月の怯えに反して、黒毛の美しいグリフォンは厩舎の中に静かに佇んでいた。
 立ったまま眠っていたらしい。
 闖入者にすぐに気づいて目を開け、冴え冴えとした黄金の瞳が結月を見た。
 結月はふるりと身をわななかせ、安堵の溜息をつく。
 そろそろと、幻獣の美しい瞳を見る。

「……一緒に寝ていい?」

 拒絶に怯えながら、聞いた。
 アルシュが言葉で返すことはない。けれどその眼差しやかすかな身動みじろぎは雄弁な意思表示になる。
 結月は全神経を集中させ、アルシュを観察し、反応を待つ。
 彼は、拒まなかった。
 かすかに目を伏せるようにしたあとで、壁側に少しだけ身を寄せた。
 結月は震えるような安堵と喜びを覚え、そうっと足を踏み入れる。乾いた藁の匂い、アルシュの匂い。
 黒い巨体の横で、盛り上がった藁にそっと身を横たえた。
 藁のちくちくとした感覚が少し不快だった。
 一応厚めの寝衣を着てきたが、寝衣は寝衣だ。
 だが不思議と寒さは感じない。アルシュの体が熱を発しているせいなのか、ほのかに温かい。

「……アルシュは、寒くない?」

 見上げながら聞く。
 美しいグリフォンは微動だにしなかった。全身を覆う艶やかな獣毛が、寒さをも跳ね返しているのかもしれない。
 柔らかそうな体毛を間近に、結月は息を飲む。
 ――触れたい。
 指を沈めてみたい。埋もれてみたい。
 あの滑らかな嘴にも手を滑らせてみたい。耳のような羽角にも、黒真珠のように光る巨大な翼にも。
 だが、そんなことをすればアルシュにますます嫌われてしまうかもしれない。
 こみあげた衝動をむりやり抑え込むように、結月は強く目を閉じた。

 とにかく、アルシュを手に入れたのだ。こうして自分の側にいてくれるのだ。彼の体が発する淡い熱を、かすかな身動ぎの音を聞いていられる。
 結月はそっと息を吐く。
 ――これが、初夜だ。自分たちの。

 

 そうして日々が過ぎた。
 アルシュを手に入れたはずなのに、結月の不安は去らない。
 手に入れたという喜び、厩舎に行けば会える、隣で眠ることを許してもらえるという恍惚感と、逃げられてしまうのではないか、いなくなってしまうのではないかという不安とが交互にやってくる。
 だから、カーデムの来訪はまったくの不意打ちだった。

「……話には聞いてたが、ますます悪化してんな、あんた」

 呆れるほかない、といったような口調だった。
 その日も、結月は明るいうちから厩舎に、アルシュのもとに入り浸っていた。
 何をするわけでもない。ただアルシュがよく見える場所に座り、眺めるだけだ。時折、どうしようもなく触りたいという衝動を感じながら。
 世界を救った英雄であるはずの聖女が、厩舎で獣と何をするでもなく向き合っている――カーデムはその図に呆れたらしかった。

 この筆頭世話役の男も、大厄災を生き延びている。アルシュの側にいたからだろうと結月はひそかに思っている。
 カーデムはアルシュの世話がもっともうまく、だから王がここに寄越したらしい。
 結月は座ったままぼんやりと、カーデムがアルシュの検診をするのを見ていた。
 男の大きな手が、精悍な鷲の頭に恭しく触れ、わずかに左右に傾かせたりして様子を見る。
 それから黒毛を梳(くしけず)るようにして胴を撫で、大きな翼の輪郭を確かめるように指を滑らせながら、羽根の一枚一枚を確かめる。

(……ずるい)

 結月はじりじりと胸の焼けるような感覚と、恨みがましい目でカーデムを見る。
 自分はアルシュにあんなふうに触れられない。触れたくて触れたくてたまらないのに。
 やがて、カーデムの検診が終わり、アルシュから離れて結月の側に立った。

「アルシュの、調子は?」
「問題ないようだ。まあ、あいつは王室育ちでも神の眷属だからな、そのあたりの野良猫や野良犬より遥かに頑丈だよ」

 結月は安堵の息を吐いた。カーデムのお墨付きをもらえば安心できる。
 感謝する一方、やはり羨ましくてじとりと見る。

「何だよ」
「……カーデムが羨ましい。アルシュにあんなふうにためらいなく触れられるなんて」
「はあ?」

 筆頭世話役はやや高い声をあげた。

「……私は触れない。嫌われたらと思うと怖くて」
「気持ち悪いな、恋する乙女かよ……ってああ、あんた本当にそれだったな」

 うんざりしたように男は言い、頭の後ろをかいた。

「よくわからんが、アルシュに聞いて許可をもらえばいいだろ。あいつは理知的だし温厚だから。が、気位が高いから気に食わん人間にはそもそも近寄らせることさえしないよ」
「……ほ、ほんと?」
「嘘言ってどうすんだよ」

 ぞんざいだがそれだけに嘘を感じぬ言葉に、結月はぱっと顔を明るくした。

「じゃあ、じゃあ……私が近寄っても大丈夫ってことは、アルシュは私のことをそんなに嫌いじゃないってこと?」
「俺に聞くな。頭の湧いた恋話は他の奴とやれよ」

 そう言って、男は野良犬でも追い払うように手を振ったあと、神の眷属に顔を戻した。その目がかすかに細められる。

「……諦めたんだな」

 半ば憐れみをこめて告げられた言葉に、結月は一瞬で浮かれた気分を打ち砕かれた。
 ――諦め。何を。
 糾弾されるのかと思った。
 震える声で、何を、と聞いた。
 カーデムは訝しげに結月を見たあと、

つがいだよ」

 と短く答えた。

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