氷の国の王2

 ――娘よ、起きなさい。

 厳しく、しかし優しい低い声が妹の耳に降りました。
 生きることをやめた妹はそれを無視しようとしました。しかしまるで不思議な力に誘われるかのように、妹はゆっくりと眼を開けたのです。
 ぼやけた視界で、雪にまみれた縦長の白い影が見えました。

 ――あなた、は…誰?
 ――娘よ、私は問う。お前はなぜここに来た?
 ――私は兄を探しに来たのです。私の兄を知りませんか?
 ――娘よ、私はお前の兄を知らぬ。ここまで登ってきたのはお前が初めてだ。

 不思議な低い声が語る言葉に、妹は静かに涙を流した。

 ――では私を眠らせてください。兄はついに見つからなかった。私はもう疲れてしまいました。
 ――娘よ、お前は兄のためにここまで来たというのか。
 ――ええ、そうです。私にとって兄は何よりも大切なものです。

 白い息を吐き、妹は再び目を閉じました。考えることを止めて、冷たい眠りに身を任せるように。

 ――娘よ、お前の名は何と言う?

 それを緩やかに拒むように、白い影は問いかけました。
 妹はうっすらと眼を開け、これが最後とばかりに口を開きました。
 ――メルシェ。私の名は、メルシェです。

 かすれた喉で、メルシェはそう告げました。

 ――メルシェ。私はお前をここで死なせたくない。
 ――…
 ――メルシェ。どうか眼を開けておくれ。
 ――なぜ、私なのですか?
 ――メルシェ。私はお前に嘘をついた。私はお前の兄のことを知っている。
 ――それは本当ですか。なら、私は…
 ――メルシェ。お前は死んではならない。それが私と、お前の兄の約束…

 低く優しく、願い事をするかのようなその声にメルシェはだいぶ重い瞼を再び持ち上げました。
 寝袋にくるまったはずの身体はとうに半分が朽ち果てる寸前のようでしたが、それでも身体を立ち上げようとしました。
 しかし、雪の冷たさはメルシェからとうに体温を奪いきり、まるで感覚がありませんでした。立ち上げたくても、立ち上げることが出来なかったのです。

 ――兄のことを教えてください。もう身体が動かない…
 ――メルシェ。私が良いというまで目を閉じていなさい。決して途中で目を開けてはいけない。その約束を守るのなら、私がお前を連れて行こう。兄のことを話そう。
 ――約束します。

 メルシェはすぐにそう返事を返しました。そうする以外、出来ることがなかったのです。
 メルシェは目を閉じました。ともすれば襲ってくる冷たい眠りを寸前のところで避けて、差し伸べられる手を待っていました。

 ふわり、と身体が浮きました。

 メルシェは驚いて目を開けて声を出そうとしましたが、半分眠りかかっていたその身体では出来ませんでした。
 薄れてゆく意識の中で感じ取ったのは、ゆりかごに揺られているような心地良さと、それに相反する冷たさでした。
 ひやりと手足を包み、触れる――冷たい腕の感触でした。

 ――あなたの名前を、聞いてもよいですか。

 不思議に思ったメルシェは、今自分を抱きかかえているはずの白い影に向かってそう問いかけました。
 目は開けることが出来ませんでしたが、かすれる喉をやっと動かすことで声だけは出すことが出来ました。
 冷たい腕は、わずかに震えたようでした。

 ――私は…私の名前は、アリエス。モーサバールの向こうの国…氷の国の王だ。

 かすかに戸惑いながらそう告げた声を最後に、メルシェの意識はふっと途切れました。

 

 ぱち、と小さな音がしました。身体を包むのは、久しく忘れていた炎の温もり。
 そして柔らかい毛布の感触でした。
 メルシェは、緩やかに瞼を持ち上げました。
 頬の辺りまでかぶっていた毛布をそっと下げ、顔を出して辺りを見渡しました。

 そこにあったのは、古びた、けれどとても造りの良い暖炉とレンガで敷き詰められた部屋でした。
 床には広い絨毯が敷かれ、メルシェが横たわるベッドは大きく、毛布も上質のものでした。
 ベッドの横には小さなテーブルがおかれ、透き通るようなクリスタルの花びらをつけた花が一輪挿されていました。
 振り向くとそこには大きな窓があり、白くくもって窓の外に雪が降っている様子が見えました。

 ――ここは…?

 メルシェが意識を取り戻し、今の状況を考えようとしていたところでがちゃりとドアが開きました。
 そこに立っていたのは、足首まである白い髪に白い瞳、抜けるように白い肌をした、とても美しい男性でした。
 まとっているものまで白く、その様はまるで色を失っているかのようでひどく冷たく見えました。

 ――気がついたか。
 ――あなたは誰ですか? あなたが私を助けてくださったのですか?
 ――そうだ。私はアリエス。
 ――あなたがアリエス様なのですね。助けてくださって、ありがとうございました。ここは、あなたのお城なのですか?
 ――そうだ。

 淡々と、ただ答えだけを返すアリエスにメルシェは少し戸惑いました。
 身体を包む空気は暖かいのに、アリエスの声と表情はひどく冷たかったからです。

 モーサバールの向こう側の国、氷の国の王。

 その言葉が頭をよぎり、にわかに信じられないものの、嘘だとも思えませんでした。しかし、メルシェはそのことにはこだわりませんでした。

 ――アリエス様。兄のことを教えてください。

 メルシェは臆することなくはっきりとそう告げました。
 するとアリエスは、白く冷たい手をすっと差し出しました。
 その手のひらに、見る見るうちに粉雪が溜まってゆきます。それは次第に固まって結晶となり、人の青年ほどの大きさもある雪の像となってメルシェの前に立ちました。
 その雪の像に次第に彫りが加わってゆき、見る見るうちに手足と人の顔を刻んでゆきました。
 メルシェは目を見開きました。出来上がったその像は、捜し求めていた兄ラズリスそっくりだったのです。

 ――兄さん

 メルシェは思わず呼びかけました。
 色を失ったかのような白い雪の像は、その彫刻があまりにも精密で、閉じられた瞼や唇が今にも動き出してしまいそうなほどに感じられたのです。
 雪の像は、しかし答えませんでした。

 ――お前の兄はしばらく前に、モーサバールへと登った。そしてお前が登った場所よりほんの少し下で、力尽きた。
 ――ああ…!

 メルシェは涙をこぼしました。
 解っていたものの、アリエスの絶対的な言葉が教える兄の死は、あまりにも重過ぎたのです。
 伝えたかった言葉達は、永久に届かなくなりました。

 ――彼はこう言った。妹のためだと。大切な妹が、高熱の病で倒れている。あの高熱は不治の病の前兆。熱を下げ、病を治すには雪吸い草がいる、と
 ――…!
 ――雪吸い草はモーサバールの頂上付近にしか生えていない幻の草だ。どんな高熱をも治す。だから彼は妹のために登ったのだ。モーサバールへ。

 淡々と紡がれるアリエスの言葉。
 それはあまりにも優しく、冷たく、重く、メルシェを貫きました。メルシェは涙が止まりませんでした。
 ただ、この事実を一つも漏らさぬよう、目を見開いてアリエスの言葉を聞くことしか出来ませんでした。

 ――村人はお前を隔離したのだろう、メルシェ。誰も助けようとはしなかった。だからラズリスは一人でモーサバールへ登ったのだ。
 ――なぜ…なぜ、兄を助けてくださらなかったのですか! 私を今こうして助けてくださったように、なぜ兄を助けてくださらなかったのですか!

 アリエスは表情一つ変えずに、無言でそれを否定しました。

 ――遅かったのだ、メルシェ。私が彼のもとへ行ったときには、彼は既に凍傷で手足を失くし、死ぬ寸前であった。

 妹の身を案じるあまり、自らの身を省みずにがむしゃらに進んだ結果、手足は凍傷に侵され、切断せざるを得ない状況に追い込まれていた。
 這うようにして進み、口でものを掴んだ。絶望的な状況にあっても、生き抜こうとしていた。

 還ろうとしていた――と。

 アリエスがそう言い終わる間に、メルシェの目には涙が溢れ、止まらずに視界を濁らせました。

 ――兄は、兄は決して愚か者などではなかった。私のために、たった一人で!
 ――そうだ。お前の兄が最後に私に言ったのだ。妹を助けてほしい、と。
 ――でも、私は、愚かな私は、自力で熱を下げてしまいました。奇跡的に助かってしまいました。兄の…兄の命を…!
 ――メルシェ。それは違う。

 激しい嗚咽に言葉を詰まらせ、そのまま崩れ落ちようとしたメルシェをぴたりとアリエスが遮りました。
 美しい顔は表情一つ変えず、しかしはっきりと言いました。

 ――お前がかかった高熱の病は、決して自力で治すことなど出来ない。奇跡的に助かるなどとはありえないのだ。お前の熱が下がったのは、兄の頼みを私が聞き入れたからだ。私がお前に雪吸い草を届けた。

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