氷の国の王1

 人々が住む集落と「向こう側」を隔てるように、モーサバールという高い山がありました。
 山の向こう側には、ぽつりと取り残された一つの国がありました。
 高い山のために周囲は雪に覆われ、想像もつかぬほどの寒さと冷たさに囲まれたその国は、氷の国、雪の国と恐れられ誰も近づこうとはしませんでした。
 何人もの冒険者達や、勇気や力を自負する者達が腕試しとばかりにモーサバールを越えてその国を確かめようとしましたようとしました。

 しかし、モーサバールへ向かった者たちは皆、誰一人として戻ってきませんでした。

 誰かがこう言いました。
 ――あの国に住んでいるのは雪の魔女たちだ。きっと魔法を使ってモーサバールを越えられないようにしているに違いない。
 また別の誰かはこう言いました。
 ――いいや、あの国に住んでいるのは氷の化け物なんだよ。モーサバールを越えようとした人間を食らい、それが叶わぬときは共食いをして争っているに違いない。

 そうしていつしか、モーサバールは向こう側の氷の国を守る魔の山として恐れられるようになりました。

 モーサバールの麓に、小さな村がありました。
 モーサバールの最も近くに在る村、というだけで村人以外の人間はほとんど近寄ろうとはしませんでしたが、村はそれに反してとても豊かでした。
 見かけとは裏腹に、身を切るような寒さは冬の一時と夜だけであり、昼は涼しく半袖の服でも過ごすことが出来るほどでした。

 雪解け水に恵まれた大地は栄養に富み、小麦や大麦などの食物をよく育て村に与えました。
 小さい村であるがゆえにそこに住む人間も少なく、また外部との交流もほとんどないせいか、村は長いこと平和な日々を送っておりました。

 その村に、ラズリス、という一人の青年がいました。
 明るく穏やかで面倒見もよく、唯一の肉親である妹と仲良く暮らしていました。
 若い男手は村では貴重な存在で、ラズリスはよく村のことを手伝いました。
 収穫祭や年に一度の狩猟祭。弓を得意とするラズリスは、他のどの青年よりも獲物を射止め、それを惜しむことなく村人に分け与えるのでした。

 ラズリスは村を愛しました。村もまた、ラズリスを愛しました。
 ラズリスは妹を愛しました。妹もまた、ラズリスを愛しました。

 ただ一つ異なるのは、村はラズリスを忘れ、妹はラズリスを忘れられないという点だけでした。

 ある日突然、ラズリスはいなくなったのです。
 熱を出して倒れた妹を放り、モーサバールへ向かったのです。
 村人達は止めました。しかしラズリスは聞き入れませんでした。愛用の弓を持ち、服を着込んで真正面からモーサバールへと登っていったのです。
 二日経ち、三日経ち、一週間が経ちました。
 高熱を出して一時は命を危ぶまれていた妹は奇跡的に一命を取りとめ、目を覚ましました。そして異変に気づきました。

 ――兄さんは? ねえ、兄さんはどこ?

 目を覚まし、一番に会えると思っていた兄の姿はどこにもありませんでした。
 代わりにそこにあったのは、人が居らずやけに広い部屋と花瓶に挿してあった一輪の不思議な花でした。花はすぐに枯れてしまいました。
 兄のことを村人に聞いても首を横に振るばかりで、ただ哀れみの視線と小さな溜息が向けられるばかりでした。

 妹が事実を聞いたのは、その一週間も後でした。
 妹は大層驚愕し、また悲しみの底へと突き落とされました。
 村はモーサバールの近くに在るだけに、その恐ろしさは生まれたときより親から子へ、子から孫へと語り継がれていたのです。

 恐ろしい魔の山、モーサバール。
 一度足を踏み入れたら二度と戻ることは叶わない死の山。だから決して足を踏み入れてはならない――。

 ラズリスが何を思ってその死の山に足を踏み入れたかは、未だもって解りませんでした。
 誰よりも誠実で家族思いなラズリスが、高熱を出した妹を放って突然モーサバールへ向かうなど、誰もがその行動を疑ったのです。
 しかし、誰一人としてラズリスを探そうとは思いませんでした。
 ――たった一人、ラズリスの妹を除いては。
 
 隣の家の住人に、一緒に暮らそうと言われても、友達に慰めの言葉をかけられても、妹は全く聞き入れようとはしませんでした。

 ある晩のことでした。
 妹は、ただ一人家を抜け出しました。もてる限りの食料を持ち、動きの邪魔にならぬよう服を着込み、夜の闇に紛れてモーサバールへと向かいました。

 村人の協力を仰いでも、誰一人首を縦に振ってはくれなかったのです。
 気持ちは解るが諦めろ、と言われ、止められました。
 しかし妹は諦め切れませんでした。
 彼女にとっては、たった一人の兄でした。生まれたときに既に両親は他界していて、祖父母もおらず他に頼れる人間などいない。
 そんな中で、兄だけが唯一の温もりだったのです。

 妹はただの一度も、兄に自分の気持ちを伝えたことがありませんでした。
 一緒にいることが嬉しいということ、両親がいなくても兄がいれば寂しくないということ、幸せであるということ。
 そして、大切に想っているということ。
 いつか言おうとしていて、でも気恥ずかしくて言えなかった言葉達。哀しみと同時にそれらの深い後悔が妹を襲ったのです。

 妹は迷うことなくモーサバールに足を踏み入れました。
 このまま一人で後悔と悲しみと寂しさにさいなまれる日々を送るぐらいなら、たとえ死ぬことになっても兄を探したほうがいい、そう思ったのです。

 ざく、ざく、と次第に分厚くなっていく雪を踏む音だけが妹に答えました。一日一日とまた過ぎてゆきました。
 閉ざしてしまいそうになる瞼を何とかこじ開け、リュックの中の食料は徐々に減ってゆき、軽くなってゆきました。
 雪は深くなるばかりでした。

 唯一の救いであるのは、妹にはテントという道具があったということです。
 村はモーサバールには登りませんでしたが、周辺の小さな山にはよく登りました。村の人々は、他より登山技術に優れていたのです。
 そのため、山における食料やそこで眠るための道具は発達していました。

 重たいリュックの中で、唯一テントの重みだけは減ることはありませんでした。
 人一人が入れるだけがやっとのテントの中に火をたいてうずくまり、妹は生きながらえました。
 寒さに手足が麻痺することもありましたが、こまめに温めることでぎりぎりで耐えました。底を付きそうになる食料を、半分、そのまた半分…と少なくしていって伸ばしました。

 妹は歩き続けました。
 兄に会いたい、兄に近づきたい、それだけが足を動かしていました。テントを張って休む回数は次第に増えてゆき、一日に歩ける距離も徐々に短くなってゆきました。
 視界は一面雪に覆われ、生き物の気配すらしませんでした。

 意識を保つために唇を噛み締め、体温を保つために一つ、また一つと食べ物を口にしました。しかし、そうしてついに最後の一つになりました。

 ――これで、私は死ぬの…?

 テントの中で消えかかる炎を見ながら、妹は最後の一口を咀嚼しました。
 村の名物だった、懐かしいパンの味が口の中に広がり、枯れたはずの涙をぽろりと一筋だけこぼしました。
 兄がいて村は明るくて、幸せだけが降り注いでいた日々。脳裏をよぎる思い出が無数に通り過ぎて、妹の涙腺をくすぐりました。

 寒さで手足は麻痺し、既に感覚はなくなっていました。
 火がふっと消え、妹は意識を保つために唇を噛むことをやめました。自然と瞼が下りるのに身を任せ、白い息を吐き出しました。
 せめて兄に会いたい、その思いだけを胸に抱いて。

 しかし、その時でした。

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