氷の国の王3

 メルシェは息を呑みました。
 目覚めたとき、枕元にあった一輪の不思議な花。
 目を覚ますと同時に見る見るうちに枯れていった哀れな花を思い出したのです。
 あれが雪吸い草だったに違いありません。
 メルシェは胸が詰まるような思いでした。

 ――ありがとうございます。兄とあなたが、私の命を救ってくださいました。
 ――そうだ。せっかく助かった命を、お前は兄を追ってモーサバールを登ってしまった。
 ――ごめんなさい。でも、もう充分です。兄の真実を聞けただけで、ここまで登ってきた意味がありました。ありがとうございます。
 ――メルシェ。お前はまた死に向かおうとしている。
 ――兄は私のたった一人の家族です。兄を失い、この先たった一人で生きてゆくのは余りにも辛すぎます。どうか、許してください。
 ――駄目だ。それでは私はお前の兄との約束を違えてしまう。

 アリエスの白い瞳は、ただじっとメルシェを見つめていました。
 メルシェはうつむいたままただ涙をぽたりとこぼし、言葉にすることが出来ませんでした。
 ラズリスが命をかけて守ろうとした自分の命。
 しかしそれでも、メルシェにとって生は重すぎたのです。
 ラズリスを見殺しにした村に戻って、また元通りの生活など営めるはずもありません。

 ぱちり、と暖炉の火の粉が爆ぜる音だけがメルシェに答えました。
 メルシェが口を開くまで、アリエスはただそこに立って見守っていました。メルシェ自身に考えさせ、結論を出させるためでした。

 メルシェは沈黙の間、やっとで落ち着きを取り戻し、また考えました。
 ラズリスと暮らしていた、幸せな日々。
 そのラズリスがたった一人でモーサバールに登っていった意味。
 自分が生き残った意味。
 こうして温かい暖炉で、息をして考えることが出来る意味――。
 メルシェは顔を上げました。

 ――では、私をここに置いてくださいませんか。
 ――な、何?
 ――何でもします。雑用でも下働きでも、何でもします。寝る場所だけくだされば、決してご迷惑をおかけしないようにします。
 ――駄目だ。この城は本来氷の国の民だけの場所。人間がいてはいけないのだ。
 ――しかし、私は今ここにいます。

 わずかに声を震わせながら、しかしきっぱりとメルシェはそう言いました。
 自分でも何を言っているのか解らない、大層傲慢な理由だと思いましたが、メルシェにははっきりと決意がありました。
 表情は変化しないまでも、アリエスは初めて戸惑いの色を感じさせました。

 ――お前が今いるこの部屋は、私が特別に造ったもの。暖炉を前にして溶けぬ氷の民は、私のような王たる者のみ。この城は本来は極寒の地なのだ。お前のような人間が住めるところではない。
 ――では、この部屋に。
 ――駄目だ。何度も言わせるな。お前は人間、私たちは氷の民。共に住めるはずがない。モーサバールの山がそれを証明している。

 アリエスの言葉は厳しく、きわめて正確でした。
 迷惑だ、という感情がはっきりと篭っており、容赦ない拒絶がメルシェに降り注ぎました。
 メルシェはさすがに項垂れました。本来押しの強い性格ではありましたが、確かにアリエスの言葉の意味を理解していたのです。

 モーサバールを越えられない人間と、モーサバールを越えられる氷の民。
 モーサバールを隔てて長い間交わることのなかった二つの種族。

 メルシェは、では、と口を開きました。

 ――その兄の像をください。その像を胸に、生きてゆきます。村でないどこかで、一人で暮らします。
 ――それも駄目だ。この像は人間には持てない。一度持てば、凍死してしまう。
 ――では…では、私はどうすれば良いのですか。
 ――メルシェ。その答えは私に求めるべきではない。自分で考えるのだ。数日の間、お前に時間をやろう。納得がゆくまで考えなさい。

 自暴自棄になり、八つ当たりのように叫ぶメルシェにアリエスは背を向けました。
 すがるように、嘆くようにかけられる声にも答えず、アリエスは粉雪の残滓だけを残してその姿を消しました。

 メルシェは再び涙をこぼしました。
 幾筋も幾筋も涙をこぼし、枯れることの無い哀しみのように溢れてゆきました。
 言えなかった言葉達が、何度も頭の中で響いては消えてゆきました。
 全てが遅すぎたのだと、メルシェにもたらされた答えはそれだけでした。

 

 そうして、一週間が過ぎました。
 窓の外の景色は、相変わらず雪が降っていました。
 ずっとずっと止むことのない永遠の冬なのです。
 大きな窓の外を見ると、見たことも無いような真っ白な雪の子供達が踊りを踊っていました。蝶のように舞い、はねては楽しそうに声をあげていました。
 豪雪といってもいいほどの景色の中で、大して着込んでもいない子供たちが足をとられることもなく軽やかに跳んだりはねたりしている様子は、メルシェにやはり人間の子供との違いをまざまざと見せ付けるのでした。
 綺麗に整えたベッドからメルシェが起き上がると、どこからともなくアリエスが現れました。

 ――もう良いのか
 ――はい。どうもありがとうございました。
 ――良い。送ってゆこう。どこまで行けば良いか。
 ――モーサバールの麓まで。
 ――村に戻るのか。
 ――はい。

 アリエスはわずかに、何かを問い返そうとして止めたようでした。
 メルシェもそれが何かを聞こうとはせず、ただ差し伸べられた手に自分の手を重ねました。

 冷たい、冷たい手でした。
 人の体温とは遥かにかけ離れた、氷のように冷たい手でした。

 しかしその美しく冷たい手を、メルシェが不快に思うことはありませんでした。
 アリエスに言われるがまま、「こちら」に連れてこられたときのように、メルシェは眼を閉じました。
 冷たい腕が自分をかき抱くのを感じ、その強さがひどく温かいことに不思議な切なさのようなものを感じて。

 ――もう良い。眼を開けなさい。

 言われた通り、メルシェは眼を開けました。
 あたり一面に広がっていたのは、見慣れた村を上から見下ろした光景でした。足元はわずかな雪で覆われており、歩いてゆけばすぐに村へとたどりつくでしょう。
 メルシェは振り向きました。

 ――本当にありがとうございました。ここで、お別れですね。
 ――そうだ。兄の願いを決して忘れるな。お前は生きなければならないのだから。
 ――はい。

 メルシェは丁寧にお辞儀をして、アリエスに背を向けるとゆっくりと歩き出しました。
 空は薄い灰色の雲を含み、白い雪をはらはらとこぼしました。髪に、肩にとそれが舞い降りました。
 一歩歩くと、さく、と柔らかな雪の音が返ってきました。

 しかし、その時でした。
 雪ではない、ひどく冷たいものに身体が包まれたのは。

「…メルシェ」

 それはひどく聞きなれた、懐かしく久しい声でした。
 振り向くことを拒むかのように、冷たく強い腕が後ろからメルシェを抱きしめました。
 振り向かないで、という言葉に、メルシェは従いました。
 代わりに、一週間の間で枯れ切ったはずの涙をこぼしました。

「ごめん。僕は、死んでしまった。向こうの人間になってしまった。モーサバールの向こう側にあるのは氷の国でもなんでもない、命を失った向こう側の人間が住む場所なんだ」

 いつもそうしていたように、優しく諭すような声がそう言いました。
 ああ、どうして気づかなかったのだろう、とメルシェは思いました。ひどく冷たいはずなのに、温かみを感じたアリエスの声。
 それは――

「だから、お前はモーサバールを越えてはいけない。僕は願い事を一つ叶える代わりに、消えかかっていた向こう側の国の王を継ぐことになった。でも後悔などしていない。それどころか僕は、とても幸運だった。死ぬ前に、お前の命を救うことが出来たのだから」

 ぽたり、とメルシェのこぼした涙が冷たい腕に伝わりました。
 髪に、腕に、肩に雪が降りました。メルシェの喉は言葉を許しませんでした。
 ただ、ただ、懐かしい声を一つも漏らさず聞き拾おうとすることで精一杯でした。
 体温の違いが、認めたくなくても認めざるを得ないものを証明しているかのようでした。

「メルシェ。僕を探してくれてありがとう。僕の大切な妹。誰よりもお前のことを思っているよ。心はいつも側にいる。雪が降ったら思い出して。モーサバールの向こうに、僕はいる。決して遠くない場所に」

 ――決して越えられない山を隔てて、そう遠くない場所に。

 メルシェは手で顔を覆いました。
 言葉にならず、ただ嗚咽だけが零れ落ちました。冷たい腕の、強さだけが唯一の証明でした。
 表しきれないほどの悲しみを吐き出そうとする喉を叱咤し、メルシェは冷たい腕にそっと手を重ねました。
 湧き上がる熱を、自然と口にしました。

「ラズリス。あなたを、愛しています。あなたを誇りに思います。あなたの妹として生まれたことに、あなたの妹として生きてゆけることに、感謝します」

 こらえきれず、また涙が溢れました。
 それでもメルシェは、はっきりと自分の想いを告げました。
 伝えられなかった、気恥ずかしいけれど確かな気持ち。
 心の底から湧き上がり、しまっていた言葉が、そのまま溢れ出していました。

 強く抱きしめる冷たい腕の感触が次第に消えてゆくまで、メルシェはただそこに立っていました。
 それ以上の言葉は要りませんでした。
 冷たい腕に自分の手を重ね、ただ抱きしめられるままに任せていました。

 腕の感触が消え、メルシェが顔を上げる頃には雪はいつしか止んでいました。
 身体に触れるかのように、薄く雪が積もっていました。
 冷たく、柔らかく、優しい感触でした。

 メルシェはひとしきり泣いたあと、ゆっくりと歩き始めました。
 薄い雪の上に、確かな足跡を残しながら。

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