ある令嬢と騎士の、悲しい恋の果て3

 私の中の一縷いちるの望みは、そのときに砕けたように思います。

 預けられた修道院が立派で、静かに過ごすには最適であったのが、彼なりの餞別だったのでしょうか。
 あるいは単に、私のご先祖さまと縁のある修道院だっただけなのかもしれません。

 当時の私は憔悴して淑女らしい常識や良識といったものを著しく欠いていましたが、尊敬すべき修道院長や修道女たちは根気強く、温厚に接してくれました。
 私が少しずつ落ち着いていったのは、大いに彼女たちの貢献によるところです。

 祈りと奉仕の日々を、単調で退屈という人もいます。
 けれど私にとっては癒しと平穏の日々でした。

 ――もう恋も結婚もしたくない。

 ようやく手に入れた心の平穏の日々の中で、私はそう思うようになっていました。

 彼以上に好きになる人なんて、きっといない。

 時は穏やかに、けれど無慈悲に過ぎていきました。一年、二年……十年、二十年――。
 両親が亡くなって、仕えてくれていた人たちも亡くなって、生まれ育った家が他人の手に渡って。
 
 何度か、私の元には珍しい面会希望者が訪れました。
 彼に仕えていた執事がその一人でした。
 私と彼を小さいころからよく知る執事は、私にとても同情的でした。

 私はその執事から、彼の結婚生活を少し聞くこともありました。
 あれから、侯爵家のご令嬢と結婚し、平穏な生活を送っているそうです。彼は常に礼儀正しく夫人に接し、夫人はいまや立派な女主人として家を切り盛りしているとか。
 子供には恵まれず、夫人の縁戚の子供を養子として迎え入れたこととか。

 心が騒がなかったと言えば、嘘になります。
 けれど私は時間をかけてそれを受け入れ、笑って聞くことぐらいはできるようになっていました。

 美しい朝日や夕日に心和ませ、神への祈りに心澄ませ、穏やかな話し合い相手にも恵まれ、修道院の庭園で香り高い草花に囲まれて、私の時間はゆっくりと過ぎていきました。

 ――彼の執事が久しぶりにやってきて、主の訃報を知らせたのは、そんなときです。

 病で。やつれて、最後は眠るように。

 真っ白な髪や眉、皺だらけの顔をくしゃくしゃにして嗚咽をこらえる執事を見て、いつの間にかそれほど時間が経っていたことに驚きました。
 知らせてくれた執事に丁重に礼を言って送り出して、一人になったあと。

 私は心の中に、ぽっかりと小さな穴があいていることに気づきました。
 彼と別れたときに生じたものに似た、でもいまは目を背けてやり過ごすことのできる虚(うろ)。
 心の穴を埋めることはできなくとも、目を逸らして生きていくことはできる。
 時が、私にそれを教えてくれたのです。

 だから大丈夫。もう何十年も前の、若い頃の悲しい恋がこれで本当に終わった。それだけのこと。

 私はそう自分を落ち着けて、執事が形見に・・・と持ってきてくれた箱を開けることにしました。
 本当は受け取るべきではなかったのかもしれませんが、突き返すことはできませんでした。

 蓋を開けてみると――そこには、辞書の側面のように分厚く、カードが敷き詰められていました。

 くらりと眩暈がして、とたんに耳の奥でがんがんとうるさく鼓動が鳴り始めました。

 かすかに震える手でカードの束を取り出しました。
 束は、日焼けしたものから、まだそうでないものまで濃淡を描いていました。

 まるで、過去から現在へと至る時の流れのように。

 古いと思われるカードから、私は一枚ずつ見ていきました。

『すまない。本当にすまない』

 懐かしい筆跡と共に、彼の声が耳に蘇ってくる。
 震える手で、次のカードをめくる。

『私は馬鹿だ。どうしようもない馬鹿者で、無力な卑怯者だ。何が《碧玉の騎士》だ。自分の力で君を守れず、君を傷つけて遠ざけることしかできない』
『もし私にもっと力があったら、もっとこのことを早くに知っていたら……。そんなことばかりを考えている』
『君はいま何を思っているだろう。何を見ているだろう。私にそんなことを思う資格などないのに』

 ――眩暈がしました。体が震え出して、燃えるように熱くなって。

 このカードは、一体何なのか。
 何枚も何枚も、彼の後悔、懺悔のような言葉が書き綴られている。

 まるで――まるで、私に贈られるはずだったカードのよう。
 あの日以来、彼からはカードはおろか花束の一つも贈られてはこなかったというのに。

 このことを知っていたら・・・・・・・・・・・
 彼に、一体何があったというのか。

『あの日から愚かな罪ばかりを重ねている。君の幸せを思うなら、君を突き放すだけでよかった。君にはもっと立派な男が現れるかもしれないから。でも、どうしてもそれに耐えられなかった。私以外の誰かに、君を奪われるなんて』
『修道院長から聞いた。君が穏やかな日々を送っているようで、少しだけ救われたような気になる。会いたいというのは、あまりに傲慢だろう』

 彼が、修道院長とやりとりをしていた? 私のことを気にしていた?
 ――知らなかった。
 なぜ。いったい何が。

 でも、ああ、これではまるで。

 私の平穏が、目を背けていた心の虚が、開いてしまう。拡がってしまう。

『君を愛している。君だけを』

 短いその文が書かれたカードに、ぽたりと雫が落ちて。
 何もかもが滲んで歪む。
 なのにカードをめくる手は止まらなくて、ぼやけても、彼の声が耳元でささやいているみたいに、書かれた言葉が伝わってくる。

 後悔、懺悔、郷愁、無数の、私に向けられた言葉。私に届かなかった言葉たち。

『君に会いたい――』

 真新しい、最後の一枚に書かれていたのはそんな言葉で。

 散らばったカードと、数枚のカードを胸に抱きしめて子どものように泣きじゃくる私を、他の修道女が見つけてくれました。
 すぐに修道院長まで話が伝わったようでした。

 時が巻き戻ったように泣き叫び続けたあと、私は、院長にすべてを聞こうと決意しました。
 私とカードを見た院長はすべてを察したようで、慈悲深い母のように、私にすべてを教えてくれました。

 ――この修道院に入れられたのは、確かに彼の意向であったこと。
 けれどそれは彼が私を疎んじたからではなく、私を守るためであったこと。

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