――一月が、何事もなく過ぎた。
イサーラは黙々と日課をこなし、日々を過ごした。
あの夜会以降、ジュリオは姿を見せなくなった。
資金の問題はいまだ厳然とそこに横たわっていたが、一日二日で解決できるものでもない。長期的な目で見なければならないだろう。
イサーラは“研究所”の奥の机に腰掛け、いつものようにペンを走らせていた。だがペンの走る音がふいに止まる。
ふいに、この一月ほどしばしば囚われた考えにまた引き寄せられてしまう。
『でもいいじゃないか。俺がいいって言ってるんだから。サラが自由に研究できるぐらいの資金援助はできる、ってこと。サラはそれを利用すればいいだろ』
ぐるぐると、ジュリオの声が頭の中で回り出す。
(……だめだって!)
イサーラはぎゅっとペンを握りしめ、頭を振る。
資金問題の解決法。ジュリオの求婚を受けるのが、もっとも着実で、もっとも効果が高いように思われてしまう。
――それに。ジュリオが嫌いなのかといえば、別に、そんなことはない。
夜会服のジュリオは、ちょっと目を瞠るものがあったわけで……。
(だ、だから違うってば! だめだってば!! 断固拒否!!)
イサーラは一人悶絶する。この一月ほど、その馬鹿げた考えを延々ともてあそんでいる。
いや、この一月会いに来ないということはジュリオはもう諦めたはずで、あの男のことだからまた新しい恋人でも作っている可能性も大いにあり……。
イサーラは一人で大いに狼狽え、脳内の邪念を必死に追い払い、ようやく落ち着く頃にはなぜかたいそう消耗していた。
ただ雑念を追い払うだけなのに、息切れするような感じだ。
(だいたい、実績もないのにそんな……)
たとえ、万一、まかり間違ってジュリオの求婚を受けるとしても、気後れする。
ポーション作りはまだ基礎が成功したところで、将来的に人に売るに値するものができるかどうかはまだわからないのだ。いや、自分一人ならどれだけかかっても、たとえ失敗してもいい。だが人の投資を受けるとなると別だ。
冷静に考えて、ある程度の実績、見込みがなければ、人に頼ることはできないと思う。
(……そうよね、ニホンジン。断固拒否すべきよね)
胸に手を当て、前世の自分であったものに語りかける。孤独で、けれど自立した一人の人間として生きた女性。
その記憶がイサーラに答えることはない。
けれど人に甘えるような様子を見せなかった彼女からすれば、安易な道に飛びついてしまう自分が情けなく見えてしまうだろうと思う。
しっかりしなければならない。アナヴィスのような立派な女性になるためにも。
(……そのうち、ジュリオの頭も冷える)
そう考え、気合いを入れ直してペンを握った。目の前の記録、アナヴィスの写本に意識を集中させる。
イサーラを夢中にさせ、イサーラをイサーラにするための道がそこに続いている――。
「サーラ」
「わあっ!?」
甘ったるい声と同時、頭にいきなり重いものが置かれてイサーラは飛び上がりそうになった。
しかしひどく既視感のある感覚に慌てて振り向くと、顎を乗せた張本人は、悪戯が成功した子供のように笑っていた。
「なっ、何す……!!」
「集中してるなーと思って」
「当たり前でしょ!!」
思わず言い返してから、イサーラははっとした。
とりあえず椅子から立ち上がり、その場でジュリオと対峙する。
――一ヶ月ぶりだというのに、そしてあの夜会の後だというのに、幼なじみは普段とまるで変わらなかった。
「な、何。緊急かつ重大な用件?」
「まあ、そうだね」
とても緊急かつ重大とは思えぬ口調で、ジュリオは言った。
「一ヶ月、俺が来なくて寂しかった?」
イサーラは虚を衝かれた。幼なじみは悪戯っぽい――それでいてなぜか少し妖艶さを感じさせる笑みを浮かべている。
イサーラは無性に気恥ずかしくなって、声を荒げた。
「ば、ばかじゃないの! 忘れてたに決まってるでしょ……!」
「ええ? わざわざ来るの我慢してたのに」
いかにも不服そうにジュリオは言う。
だがイサーラは更に驚かされる。――我慢。なんのために。
(な、何がしたいんだこの男……!?)
いったいどういうつもりなのか理解しかねるイサーラを横目に、幼なじみはかすかに首を傾げた。
「……あれから、色々考えてみたんだけど」
イサーラははっとする。
――あれから。夜会の日以来ということだろう。
「サラは、楽だから、まあいいか、そういう基準はいやだってことだよな」
ジュリオが宙を見ながら、軽く閉じた手のうち、長い小指と薬指をたてる。
イサーラは眉根を寄せた。話の方向性がわからないが、事実なので、とりあえず黙って続きを聞く。
「あと、友達かつ資金援助というのもだめ」
今度は一番長い中指も立てられる。
かと思うと、ジュリオがゆっくりとイサーラに目を戻した。
すっと一歩踏み出す。その動作はゆったりとしていて自然で、だがイサーラはなぜか後退する。
しかしとたんすぐ後ろにあった椅子に阻まれ、膝裏を軽く打ったせいですとんと椅子に座ってしまった。
ふと影が落ちた。
両肩のすぐ側を、大きな腕が通った。ジュリオの手が机につく。
イサーラは座ったまま閉じ込められ、痛いほど顔を上向かせて見上げると、すぐ側に灰色の目があった。――まるで、内側に熾火を残した灰みたいな目だった。
「なら……、本気で口説こうと思って」