低い、別人みたいな声が落ちた。唇が笑っている。けれどその目は笑っていない。
イサーラは息を止める。
聞いてない、と頭のどこかで声がした。
こんなジュリオは聞いてない。――知らない。
雑にまとめたせいでこめかみに一筋こぼれていた髪を、ジュリオの右手が絡めとる。
「ねえサラ。もう一回、俺に惚れてくれない?」
甘ったるい――これまでの比ではないくらいの甘ったるい、声だった。
まるで、恋人に向けるような。
よく知ったはずの幼なじみ、それでいてまったく知らない男がそこにいた。
もう一度。破れた初恋。思わせぶりな、無意識に勘違いをさせるようなことを言う男。
――だが、この言葉は。この声は。
イサーラはくらっとした。とっさに声が出ない。
たちまち鼓動が乱れ、爆発してしまいそうだった。
なんとかジュリオから目をもぎ離し、瞬く間に紅潮する顔を隠すように背ける。
「ば……っ、ばかじゃないの!! 信じられない!!」
「じゃあ、信じてもらえるようがんばるから」
「そ、ういう問題じゃない! な、なんなの! いまさら……っ!!」
「そうだね、今更だね。だからもう一回はじめからやり直そうと思って。今度は誤解でも勘違いでもないよ。ポーションに負けるのは癪だけど、サラに必要ならポーションごと引き受ける。聖女アナヴィスも一緒でいい」
イサーラは耳を疑った。思わず見上げて、目を見開いた。
ジュリオは穏やかに笑っている。
何だ。何が起こっている。
この、のほほんとした男はこんなに饒舌だったのだろうか。――いや、この開き直りともいうべき態度は何だ。何なのだ。
妥協。資金。投資。友達。そういったものが一気に吹き飛んでいく。
ポーションごと、アナヴィスごと引き受ける。なんだそれは。
あまりにも無頓着すぎる。――いや、ジュリオはそういう男だ。心が広いと、言えなくもない……。
(ち、違う……っ!!)
危険だ。非常に危険である。こんな攻撃は予想していなかった。断固拒否、という言葉さえ端から瓦解していく。
イサーラの頭は大混乱だった。
強固な城塞で防御を固めていたはずが、いつの間にか敵に入り込まれていて、防備の整っていない内側を好き放題に切り崩されてしまうというような。
青のポーションをつくっていたはずが赤のポーションだったというような。
――いや、そういう問題ではない。
このままでは何か、非常に危険な……。
大攻勢をしかけてきた敵は笑っている。勝利を確信した将校のように。
「結婚しよう。そのままのイサーラでいい。惚れてくれるのはそのあとでいいから」
少し遠出しようとでも言うような軽い声。
だが今度は、他を差し置いてすぐにでも出ようというような、断定の調子だった。
――結婚してから惚れたらいいとかとか、惚れてほしいのにまず結婚とかどういうことだ。順序が甚だしく逆ではないのか。いや何もかもがおかしい。
許容量をこえた言葉の数々に、イサーラはただただそんなことを考える。
がらがらと城塞の壁が崩れていく音が聞こえるような気がする。
その向こうで、聖女アナヴィスが、ニホンジンが笑っている。
――仕方ない、とでも言うように。
まるで降参するみたいに。
ふいに影が大きくなる。小さな光の映りこんだ灰色の瞳が近づいてくる。
その目はまるで、火を灯したようで。
イサーラは魅入られたように呆然と見上げる。
「……ああそれから、子供の問題も」
なぜか、ジュリオは謎めいた微笑になってささやきを落とす。
「大丈夫。俺、サラとならできるし……結構、うまいほうだと思うから」
イサーラは固まる。
できる。うまい。何が。どういう意味だ。――子供の問題?
ジュリオが身を屈めて、その無駄に端正な顔が近づいてくる。
湿った吐息を感じるほどに。
ふいに、この突拍子もない幼なじみ自分に何をしようとしているか気づいたとたん――イサーラは耳まで赤くなった。
「バ……バカ――――っ!!」
そうして、全力で男の体を突き飛ばしたのである。
◆
――あるとき、恋多き社交界の淑女たちの間で、こんな噂が流れた。
一部の女性の間ではよく知られている、あの灰色の目の男。
あの男がついに結婚したらしい。
驚きのあと、祝う言葉と呪いの言葉とがいりまじってささやかれた。
幾人もの女心をもてあそんだ男、その相手はいったいどれほどの美女・女傑か――みなが興味を示した。
だがその相手を知ると、みな言葉を失ったという。
あまりに予想外の相手だったからだ。
――そして。
聖女アナヴィスにはじまったポーション薬学が、イサーラという貴族の女性によって完成を見るのは、もう少し後のことであった。