要するに未練、蒐集家的性質であると友人に断定されたあとも、当のジュリオはイサーラの研究所を訪れた。
暇を持て余した子供のように――実際は暇と金を持て余した青年貴族である――ジュリオはその日もやってきては、ぼんやりと棚を眺めたり、作業机に頬杖を突いてぼうっとしたりしている。
とにかく邪魔だし少し気が散るのだが、強く言って追い返してしまうと後で逆に自己嫌悪に陥ることがわかっていたので(そして効果もないので)、イサーラは半分諦めるようになっていた。
いやがっても押しかけてくるくせに、気にはしているのか、ジュリオはしばしば手土産として茶菓子の類を持ってくる。
別にそれで懐柔されているわけではないが、イサーラも余計に煮え切らない態度になってしまう。
今日の手土産はマドレーヌだった。
無骨な作業机の上に茶器を置く。本来、あまりこういったものを持ち込まないのだが、ジュリオが最近頻繁にやってくるせいで登場回数が多くなった。
イサーラは一応マドレーヌの礼を言って、きれいな貝の形をしたそれをかじった。思いのほか口に合って、おいしい、と心の中でつぶやく。
どこで買ったのか聞こうと思い、ジュリオを見ると、当のジュリオはせっかくいれてやった茶に見向きもせず、ぼんやりと棚を眺めていた。
「……ちょっと、ジュリオ?」
「ううん……」
「何。具合でも悪いの?」
いや、とイサーラの幼なじみは答えた。
「どうやったらポーションに勝てるか考えてた」
「……は?」
イサーラは思わず裏返った声で言ってから、複雑な顔になった。少し気恥ずかしく、同時に辟易するといったような入り乱れた気持ちである。
――未練。狩り。
友人の言葉が再び脳裏をよぎる。
改めてジュリオの様子を盗み見るも、その様子は恋の熱に浮かされたとか、本来求婚者のあるべき姿といったものとはかけ離れている。
――自分に、何か特別に想うところがあってこれほど結婚したいと言っているわけではないのだ。
だとすれば単に、ポーション一個分以下と言われたことに腹が立って見返してやりたいとか、そういった類の意味なのだろうか。
イサーラはマドレーヌをかじる。しかし先ほど感じた味わいは、もう訪れなかった。
「……まだ諦めてないの」
「うん」
イサーラはしばし絶句する。それから、苦い顔になって口の中のマドレーヌを咀嚼、嚥下する。
「そうでなきゃ、こんなに通わないよ」
イサーラの表情の意味にも気づかず、あるいは無視してかジュリオはのんびりと言う。
一口、二口とイサーラはマドレーヌをかじる。
こじれている、と思う。
このままではよくない。――自分にとっても、ジュリオにとっても。
ただそれだけはわかった。
マドレーヌを食べ終え、イサーラは軽く手を払った。
そして決着をつけることにした。
「ジュリオ。はっきり言っておくけど、ポーションより大事なものって私にとってないよ」
幼なじみは振り向き、灰色の瞳でイサーラを捉える。その唇が、反論らしいものを紡ぎ出そうとする前に、イサーラは言葉を重ねた。
「それに、結婚するってことは子供の問題があるでしょ。それはどうするの」
「……どうするの、って……」
イサーラは一拍の間になんとか自分を鼓舞し、無表情でいられるよう力を振り絞った。
思いもしない話題だったのか、ジュリオは少し呆然としているようだった。
「ジュリオは、何かやりたいことある? ものすごく熱中できるものとか」
「……やりたいこと……?」
ジュリオは更に言い淀み、考え込む。何度か唇が動こうとしたが、声にはならなかった。
イサーラはただそれを、少しだけ寂しく、同時に少しだけ哀れむような気持ちで見る。
――ジュリオは容姿にも恵まれ、資産を持ち、異性からの愛も幾度となく受ける身だ。
そして何より、イサーラのように前世の記憶などというものがない。
自分自身が揺らぐような、自分の存在が飲み込まれてしまうようなあの感覚を知らない。自分のやりたいことというものにすがり、錨となるべき信念を持たなくとも普通に生きていけるのだ。
それは決定的な違いだった。
だから、ジュリオはイサーラを理解できないのだ。
だがそれがジュリオの欠点だとは思わない。ほとんどの人間が、きっとジュリオと同じだろう。そしてそれは不幸せなことではないと思う。
ただ、自分とは違う人種であるというだけのことだった。
「……他の人にはさほどの価値でないものでも、熱中してる本人にとってはとほうもない価値を持つの。ポーションの価値の違いは、そういったところから生まれてる」
静かに、イサーラは言った。
ジュリオはかすかに眉を歪める。――理解したがい、実感しがたいという顔だ。
イサーラは、それ以上説明を重ねなかった。無理にジュリオに理解してもらおうとは思わない。
ただ、自分たちの間には決定的な価値観の違いがあって――それはもう、昔のような幼なじみの関係にも、淡い初恋を抱いたような時期にも戻れぬことだけをわかってほしかった。
いまのこの友人関係が、決して昔のような無邪気なものではないことも。
イサーラは抑えた声で、言った。
「もうここには来ないで」
――自分はもう、子供の時と同じ人間ではないのだから。