その日、イサーラはいつもと同じく“研究所”にこもって、奥の机に座り、経過観察の記録、及び実験記録の整理をしていた。
「サラー」
そんな声と共に、背にのしっと寄りかかってくるものがあった。重い。大きい。
こんな子供っぽいことをする人間は一人もいない。
イサーラは一瞬驚いたものの、すぐに呆れ、のし掛かってくるものを押し返した。
「邪魔」
「……挨拶よりも先にひどいこと言わないで」
「挨拶よりも先に子供じみたいやがらせしてるのはそっちでしょ! ……というかいきなり入ってこないで。許可ぐらいとってよ」
ジュリオは相変わらず呑気そうな顔でそこに立っていた。
研究室の内側から鍵をかけられないのは問題だ――とイサーラはいまになって思う。
椅子に座って上半身だけで振り向いたまま、幼なじみを睨んだ。
あの求婚事件以後、いつもの愛すべき研究に埋もれ、ジュリオのことをすっかり忘れていた。
ジュリオはすっかり慣れた様子で、作業机に腰掛ける。
「で、用件は?」
「うん、結婚しよう」
――ただ寄ってみただけ。そんな内容とまったく同じ口調で言われ、イサーラは一瞬止まったあと盛大に脱力した。
「あ、あのねえ……!」
「いや、勉強した。聖女アナヴィスって人について」
思わぬ答えに、おや、とイサーラは片眉を上げた。
「ふうん? で?」
「……俺のほうが、結婚相手として優れていると思う」
幼なじみは妙に自信たっぷりに言った。
イサーラはとたんに冷ややかな目で幼なじみを見た。答えを返す気力も失せてしまう。
お話にならない、という意味でひらひらと手を振る。さっさと帰れという意思表示だ。
「サラ、ちょっと待って。現実的になろうよ」
ジュリオが少し慌てた様子を見せる。
現実的、という言葉にいやなものを感じて、イサーラは眉をひそめた。
「どういう意味」
「だからさ……サラ、ずっとこのポーション研究? 実験? をして一人で過ごすわけか? そうじゃないだろ。ご両親も心配しているし」
急に痛いところを突かれ、イサーラは唇を引き結んだ。
――それは自分もまさに考えて、だが結局解決策が見つからず先延ばしにしていた問題だったのだ。
かなうなら研究に一生を捧げたい。しかしそれには投資の、資金の問題が立ちはだかる。
「……それ、ジュリオに関係ある? 私の両親、あなたにどうにかしてくれと泣きついたわけじゃないのよね」
「それは……、そうだけど」
「私のことを言う前に、自分の身を振り返ってみたらどう?」
イサーラの声はつい刺々しいものになる。
めげないだけで口論が得意ではないジュリオが言葉に詰まる。
その姿を見て、イサーラはかすかに罪悪感を覚えた。――こんなふうに嫌味を言いたいわけではない。
息をついて、意識的に声を和らげた。
「私の心配はいいよ。結婚って大事なものでしょ。ジュリオには資産もあるんだから、しっかりした人をもらえばいい。ジュリオを好きで、美人で、家財の管理にも長けた女性が他にいるわ。変に妥協しないほうがいい」
イサーラは言葉は妙な激励の調子を帯びる。
ジュリオがゆったりと薄い色の睫毛をまたたかせ、イサーラを見た。
「……しっかりした人? それってサラもだろ」
「!」
あらぬ方向から食い下がられて、イサーラは怯んだ。
一つ溜息をついて、こめかみに手を触れる。
「あのね……、だから、なんで私なの」
「いや……サラは昔からの付き合いだし、気を遣わなくていいかなと」
「それなら他にもいるでしょ。ロレッタとか、ルイーザとか」
「……それは……」
ジュリオが再び言い淀む。
イサーラはじゃっかん虚しくなった。
――ここまできて、なんでそこで言い淀むのだ。
わずかに落胆した。
「まあ、私相手が一番気を遣わなくていいというのはわかる。でもそれで結婚っていうのは安易すぎるし、私のことを馬鹿にしてると思う」
「馬鹿になんて……」
「馬鹿にしてるでしょ。楽だからまあいいか、そういう基準で私に求婚したでしょ」
じろりと睨むと、ジュリオが声を失う。
ためらっているのか、図星をつかれて言葉に窮しているのか、あるいはそのどちらでもあるのか。
イサーラは気怠い溜息をついた。
「まあ、あなたの人生に口を出すつもりはない。楽で、妥当と思える相手を選べばいい。でもそれに私を巻き込まないで。私にはやりたいことがあるの」
「……ポーション?」
「そう」
イサーラが答えると、ジュリオはどこか暗くじっとりとした目つきで、右側の棚――色鮮やかな小瓶の並ぶ棚を見た。
「じゃあその、最終目的は何?」
恨めしげな調子で言われ、イサーラは目を丸くした。
ジュリオは作業机に頬杖をつき、さもつまらなさそうな顔をしてイサーラを見た。
「研究の先には、目指す目標があるんでしょう。それは何?」