イサーラは遅れてうろたえはじめた。
あれから両親を問い詰めてみたが、別段、ジュリオに念入りに頼んだとか、娘を頼むなどといった覚えはないという。
ジュリオ君優しいね、などと見当違いの答えが返ってきたほどだった。
いまいましいことに、ジュリオはモテる男であった。恵まれた容姿と資産を持ち、あの人なつこくて鷹揚と言えなくもない性格が人気なのだ。世間一般でいうところの傲慢さがあまりないというのも、長所かもしれない。
だが、それでも――。
(ありえない……!!)
ジュリオと結婚した場合、潤沢な資金とある程度の気安さは得られるかもしれないが、結婚という以上――子供を産むことを求められる。
自分と、ジュリオが子供を。自分がジュリオの妻、ジュリオの子供の母となる可能性。
イサーラは頭を抱えた。
(無理無理! 絶対、無理っ……!!)
子供だけでなく、妻・母といった存在になればこの研究はきっと続けられない。これを奪われることなど耐えられない。
いや、ジュリオ相手ならなんとか説得して研究を続けさせてもらうことはできるかもしれない。
しかし――そもそもジュリオは、いまの自分にとってただの付き合いの長い友達、だらだらと続いている幼なじみ、ほとんど親戚、それ以上のものにはなりえないのだ。
イサーラは苦々しく、かつての失態、惨憺たるありさまであった初恋の記憶を思い出す。
親同士が仲が良い関係で、ジュリオとイサーラは幼い頃から一緒に遊ぶことが多かった。ジュリオは屈託のない子供で、誰にでも分け隔て無く優しかった。――単に鈍感だったのかもしれないが。
十歳前後の微妙な年頃になってくると、男子は女子に対して距離を置こうとしたり、やたらと突き放したりするものである。
しかしジュリオは違った。大らかというか、能天気というか、年頃になっても変わらなかったのである。
かくれんぼ遊びなどで、イサーラははりきって見つかりにくいところに隠れ、はりきりすぎて誰にも見つけてもらえなかったことがある。
時間が経っておそるおそる出て行くものの、辺りは暗くなりはじめ、自分自身道に迷ってしまった。
森の入り口より少し奥といったところであったらしいが、子供には鬱蒼と茂る木々がおそろしく、影の迷宮に迷い込んでしまったような絶望感に襲われた。
イサーラは立ち上がることもできず、うずくまって泣いた。
『サーラ? サラー?』
のんびりした声が天の助けのように響いたのはそのときだった。
イサーラは嗚咽しながら、ジュリオ、とかすれた声で呼んだ。
小さな声だったのに、ジュリオはそれを聞きつけたらしかった。方向を確かめるように何度もサラの名を呼び、それは徐々に近づいて――がさがさと草葉を鳴らして姿を現した。
――暗い森の中、銀灰の髪は闇の中に差し込む光みたいに輝いていた。
うずくまるサラを見つけ、ジュリオはいつもと変わらぬ笑顔を浮かべた。
『みーつけた』
その笑顔の輝き、頼もしさは、イサーラの目に絵物語の騎士が抜け出てきたように見えた。
帰ろう、と手が差し伸べられる。
イサーラはおずおずと手を伸ばす。とたん、なんのためらいもなくぎゅっと握られ、軽く引っ張られて立たされた。
ジュリオはイサーラの手を引いて、迷うことなく出口へと歩いて行く。
イサーラはぐずぐずと泣きながら、それでもジュリオの手の温かさと強さに引かれるがまま――森の迷宮を抜け出した。
大人のイサーラは、そのなんとも言い難い感傷的な思い出を苦々しく噛みしめる。
――ジュリオはいつもこうだった。
分け隔て無く人に優しい、人の心に自然に入り込んでしまう……それはつまり、相手を誤解させてしまうということなのだ。
迷子事件だけでなく、その後もジュリオはイサーラに親しい友人として接した。
旅行に行ったときの土産といって、自分にだけちょっときれいな髪飾りをくれたなんてこともある。
愚かで幼いイサーラは、ジュリオにとっても自分が特別な存在なのだと思い込んだ。
勘違いを正せぬまま、恋などというものをしてしまったのである。
ついにそれをこじらせ、イサーラはジュリオに告白するに至った。
そのときのジュリオの反応を、イサーラはいまも忘れていない。
『え……?』
第一声が、それだった。
ジュリオは驚いていた。大きな目を見開き、急に伸び始めた背と肩と幼い表情とが妙にちぐはぐだった。
――そう、驚いていた。そんなことを言われるとは思いもしなかったという顔だったのだ。
『サラのことは、好きだよ。……ええと、その、』
ジュリオはためらいがちに、そう続ける。
そこで引けばいいのに、幼かった自分は好きだという言葉の響きだけに縋ってしまって、よい答えを期待した。
そして打ち砕かれた。
『友達……だから。大事な友達だけど――』
――恋人とか、そういう意味では考えられない。
浮かれあがっていたイサーラは、一気に突き落とされた。
そのときはじめて、ジュリオの気さくさがいかに特別でないものか、自分の勘違いがどれだけ惨めかを思い知ったのだった。
(あああ……!)
イサーラは頭をかきむしる。恥ずかしい。いま思い出しても最悪だと思う。
勘違いさせたジュリオにも腹が立つが、浮かれあがっていた自分にも腹が立つ。
あの後、イサーラははじめての失恋で泣き暮らす日々を送り、ジュリオとしばらく顔を合わせなくなった。
そのままなんとなく疎遠になり、やがて風の噂に――ジュリオが、社交界で評判の美少女と恋仲になって、悲恋物語にでもなりそうな結末を迎えたと聞いた。
お互いに両思いなのであるが、美少女のほうは親の決めた相手と結婚したという。
その美少女は、イサーラでも知っているほど評判だった。一度遠くから見かけたことがあるが、珍しく感じの良い美少女だったことを覚えている。
自分とは真逆だ。
なるほどあれなら、ジュリオも惚れるだろう。
更にその後、イサーラと一時交流があった、友人と呼べなくもない少女と交際しているという話を聞いた。
今度は少女のほうがジュリオにいれあげているという話だった。
ジュリオの親とイサーラの親に交流があるせいで、いやでもそういう話が聞こえてきてしまうのだった。
しかしその頃にはイサーラの失恋の傷も癒え、ふうん、と聞き流すことができるようになっていた。
疎遠になっていたジュリオと再び交流するようになったのはその後だった。
ジュリオが付き合っていた少女は、ジュリオの子供を身ごもったとかさんざん騒いだあげく、別の男に乗り換えたらしい。
さすがのジュリオもやつれた様子で、少女のことを知っているイサーラのもとに相談――もとい愚痴を言いにきたのである。
イサーラもその頃にはすっかり冷静になっていたし、ジュリオが弱っているところをみて友人として話ぐらいは聞いてやろうという気になっていた。
以前ほどではないものの、こうしてジュリオとの交流は復活した。
ジュリオはしばしばイサーラの実家を訪れ、両親に挨拶し、自分と雑談して去って行く、あるいは時々手紙を寄越す――などというのが続いた。
その間にもジュリオは浮き名を流していたし、イサーラは別段それになんとも思わなかった。ああ、また勘違いする女性が増えているのだろうな、と多少同情しただけである。
ピエトロとの婚約、破談、アナヴィスとの出会いなどがあってからイサーラは自分のやりたいことを見つけ、ますますジュリオの存在は気安い友人――もっといえば軽い存在になっていった。
気まぐれに訪れるジュリオはもはや親戚とか従姉妹と同じ存在であり、茶飲み友達も同然だった。
研究に没頭したいときに来られるとちょっと煩わしいとは思うものの、頻繁ではないのでまだ我慢できる。
だから――だから、その親戚とか茶飲み友達に等しい男から、いまさら求婚されるなどというのは予想もしなかったのだ。