「用件はこれ? なら済んだでしょ、帰って」
「ええっ? こんな簡単に……」
「こんな簡単に切り出したのはあなたのほうでしょ」
サラは犬を追い払うように手を振って、さあもう帰って、と繰り返した。
ここまですれば普通の男は怒って出て行きでもするだろうが、あいにくジュリオは普通の男ではなかった。
ううん、と眉間に皺を寄せたあと、小屋の中を見回した。
「この薬物……これがサラにとって一番大事なもの? 結婚よりも?」
「……そう言ってるでしょ」
「俺とこのポーション一つどっちが大事?」
「ポーション」
イサーラは即答した。
即答はさすがに傷つくなあ、などと、本当に傷ついているとは思えぬのんびりした声が言う。それからどこか名残惜しげに、
「昔はあんなに……」
とつぶやいた。
思い出したくもない過去を暴かれそうになり、イサーラは頬が少し熱くなる。だがそれを振り払うように眉をつりあげた。
「何年前の話? それ以上言ったら怒るよ、本当に」
「……わかったよ、ごめん。じゃあ、どうしたら俺と結婚してくれる?」
――まったくわかっていない答えに、イサーラは虚を衝かれ、次に鈍い頭痛を覚えた。
この男はいったい、何を考えているのか。
よほど自分の両親から娘を頼むというようなことを言われたのだろうか。いや、そうかもしれない。
あとで両親とよく話し合っておかなければならない。
「あなたが聖女アナヴィスよりかっこよくてポーションより有用かつ画期的になったらね」
イサーラは溜息交じりにそう言って、懲りない男を小屋から追い出した。
◆
ジュリオは、感情が顔に出にくいと言われるたちである。
自分としては人並みに喜怒哀楽がある――つもりなのだが、怒りや悲しみといったものが特に表情に出にくい性質らしく、ほとんど鈍感ともいえるべき精神の強靭さを備えているように見られる。
確かに人より少しだけ寛容だとは思う。
滅多なことで腹が立たないし、悲しいとも思わない。楽しいことは人一倍好きで、楽天的なところはあるが、別に怒らない人間でも悲しまない人間でもないのだ。
そのジュリオは――イサーラの小屋、通称“研究所”から追い出され、途方にくれていた。
(……俺、ポーション一個分、以下?)
ポーション、と即答したイサーラの声が脳内でぐわんぐわんと反響する。
冗談で言っているようには聞こえなかった。
表情に出にくいと言われている男の内側では、衝撃の嵐が吹き荒れていた。
結婚。
確かに言うべき状況と時を少し間違えたかもしれないが、別に冗談で言ったわけではなかった。
女性との付き合いはあまり途切れたことがなかったが、いままで結婚に至ることがなかった。両親から心配されはじめていたときであったし、自分でもそろそろまともに身を固めたほうがいいかもしれない、と思ったのである。
ハリエットと散々もめて別れた後で、新しい出会いにはややうんざりしていたというのはある。
自分の性格を理解し、友人関係を否定しない女性がいい――と考えたところで、ふとイサーラが思い浮かんだのだ。
イサーラは、まあ少し驚きはするだろうが、よもや即拒否するとは思いもしなかった。
――イサーラと自分は幼なじみで、イサーラの初恋の相手は自分だから。
多少ぞんざいに扱われてもそれは親密さのあらわれで、他の男よりも近しいのは確かだし、イサーラは少なからず自分にまだ未練があるもの……と思い込んでいたのである。
ピエトロとの婚約が破談になったときもさほど驚きはしなかったのは、そのためでもある。
後になって、ピエトロからイサーラが少々気をおかしくしたためとか前世の記憶がどうとか言いだしたからなどという理由を聞いたが、まさかそれが本当だとも思わなかった。
――ピエトロとの婚約がだめになったのが理由でなければ、その、前世の記憶どうとかいうものが、イサーラをあのわけのわからない小瓶へと駆り立てるのだろうか。
そういえば一時期、イサーラが家にこもりがちでしばらく面会を許してもらえなかった――いつの間にかそれがなくなり、久しぶりに会ったイサーラは前より生き生きして見えた。
やりたいことが見つかったから、とイサーラは言っていた。
(……それがあの、ポーション?)
自分よりも価値があるという、あの小瓶たちなのだろうか。
そんなばかな、とジュリオは思う。
だが自分がなぜここまで衝撃を受けているのか、横頬をはたかれでもしたような感じがしているのかわからなかった。
自分はイサーラが嫌いではないし、わりと親しい友達の一人だと思っている。
年を重ねてから、以前のように無邪気な友達関係ではなくなったが、へたに意識しないですむ、付き合いやすい異性の幼なじみの一人だ。
むしろそういった異性としては唯一かもしれない。
幼い頃から知っているからなんとなく見ていたが、冷静に考えると、イサーラはずいぶんきれいになった。
少なくとも、わけのわからない相手より結婚してもいいと思えるぐらいには。
なのにそれは――一方的な思いでしかなかったのだろうか。
イサーラはもう初恋の相手などどうでもよくて、ただのジュリオという友人の一人としてしか見てくれないというのだろうか。
いや、友人関係に不満があるわけではない。ないのだが……。
(ポーション……、ポーション……)
毒々しい色合いの、赤や青や緑の小瓶が嘲笑うように脳内で乱舞する。
自分はイサーラの初恋の相手だから、という自信が大きくひび割れていく。
(聖女アナヴィスよりかっこよく……、って聖女? 女性じゃないのかそれは……)
ジュリオは、少なくとも並の男よりは自分が魅力的だと知っていた。
容姿は整っているほうだし、実家にあるかなりの財は、やがてはジュリオのものである。
苦労せずとも女性のほうから言い寄ってくる。言い寄ってこないのはイサーラぐらいのものである。
その自分が、聖女アナヴィスとかいう人物より劣るというのだろうか。
いや、名前からして聖人なのであろうから、徳という意味で俗物の自分では敵わないところはあるにしろ――。
(ポーション……聖女……)
ジュリオは衝撃と混乱で自分でもわけがわからないまま、敗残兵のような足取りでふらふらと小屋から離れていった。