イサーラの心臓がはねた。
突然触れられ、同時に突然心の中に踏み込まれた。
――どこからそれを。よりによってこの男がなぜ知っている。
だがいまは、ジュリオの食い下がり方が頭に来る。
顔を上げ、灰色の瞳を睨んだ。
「……どこから聞いたの、それ」
「ピエトロとかサラのご両親からとか。よくわからなかったけど……前世の記憶みたいなもの? それって、聖人みたいじゃないか。神の恩寵とかなんとか」
おどけるような口調に、イサーラの神経はますます逆撫でされる。
つかまれた肘を振り解く。
「ふざけないで」
――何も知らないくせに。
その言葉を飲み込む。
前世の記憶などというには、あの夢はあまりに別の世界のことでありすぎ、あまりに鮮烈だった。
それにあれが前世なら、イサーラはかつてニホンジンの繁栄した別世界の住人だった――ということになる。
それは言葉にしてしまえばあまりに簡素にすぎ、イサーラが苦しみの末にたどりついた結論を言い表してはいない。
ニホンジンの記憶を持ったイサーラという自分を受け入れるまで、大いに時間と精神とをすり減らしたのだ。
「用がないなら帰って。あなたとくだらない話をする暇なんてない」
「……怒るなって、ふざけるつもりじゃなかった」
ジュリオが少しばつの悪そうな顔をする。
イサーラは怒りをこめた冷たい目で男を睨み続けた。
このことに関しては干渉を許すつもりはなかった。特にこの男には。
帰れ、と目と態度で無言の圧力をかける。
しかしジュリオにはそれすら伝わっていないのか、怯む様子すらなく、
「んー……」
などと呑気につぶやき、そしておもむろにイサーラを真正面から見つめると、口を開いた。
「結婚しようか」
少し遠出しようか、とでも言うような気軽な口調だった。
イサーラは男を睨んだまま、その言葉の意味を理解するまで数秒かかり、ようやくこぼれ落ちんばかりに目を見開いた。
「……は?」
「結婚。しない?」
「な……」
――何を言っているのだ、この男は。
イサーラは文字通り声を失った。
この男が突拍子もない性格であることは知っていたが、ここまで突拍子もないことを言うとは思いもしなかった。
そして――幼い頃のあれこれを思い出して、じわじわと怒りがこみあげた。
この男はいつもそうだ。
本気じゃないくせに。真剣じゃないくせに、こんなことを平気で口にする。
「ば……、馬鹿じゃないの!? そういう冗談はやめて!!」
「いや、でも、サラはこのままだと結婚しないでしょ。ご両親悩んでるよ」
「それでもあなたには関係ない! 結婚なんてする必要ないし、私にはやりたいことがあるの!!」
「……やりたいことって、この……ポーション? 作り?」
そうよ、とイサーラは声を荒らげた。
そこでようやく、この幼なじみにつられて自分の調子が狂っていることに気づき、意識して大きな息を吐いた。吐き出したぶんだけ、冷静さが少し戻ってくる。
――もしかしたらジュリオは、勘違いしているのではないか。
いまだに自分が、この男に恋をしているなどという勘違いを。
あの愚かしい初恋は、もう十年以上前のことだというのに。
何か妙な騎士道精神だか憐れみだかを発揮して、引き取り手のいない自分を引き取ってやろうとでも思っているのではないか。
(……屈辱だわ)
もしそうだとしたら自分への侮辱に他ならない。
イサーラはもう一度大きく呼吸して、ことさら平坦な声で言った。
「とにかく結婚なんて考えてないし、あなたに心配してもらう必要なんてない。人の心配より自分の心配をしたらどうなの。あなたもいい加減、しかるべき相手と結婚しなさい。それとも、ハリエットと別れて自棄になってるわけ?」
「いや、そうじゃない。でもそろそろ結婚したほうがいいかなって。サラならまあいいか、と思って」
あっさりとした答え。
むしろ皮肉っぽい調子で言ってくれたほうがどれだけましだったかというぐらい自然な口調だった。
イサーラはぴきりとこめかみに青筋が立つのを感じた。
まあいいか。どこまで失礼な男なのだろう。
「怒るよ。私にだって選ぶ権利ぐらいあるし、あなたとの結婚なんて絶対にいや」
「……絶対?」
「絶対よ」
サラは怯まず言った。
ようやくジュリオの眉がくもる。