この世界にニホンジンなどという部族はいない。歴史の中にもない。
だが未開の部族とは思えなかった。
彼らの文明においては、森や木はほとんど見えなかった。土すらも。
あるのは鋼鉄とか鉱石で建てたとしか思えぬ四角張った建造物の数々と、夜なのに明るい強烈な照明の乱舞、空を飛ぶ鈍色の巨鳥、平たすぎる道を通る馬のない馬車――そういったものばかりだった。
未開の地というよりはほとんど異世界というような気がした。
はじめこそ不思議な夢だと思っていたが、だんだんとその夢を見る回数は多くなり、夢と夢の間隔は狭くなっていった。
そして風景のすべてが鮮やかさを増し細部がはっきりと見え、ニホンジンの女性の過去や思考までもがわかるようになっていく。
まるで現在に二重写しになるかのように。
はじめは一滴の雫にすぎなかったものが加速度的に量を増してゆき、水たまりとなり池となり川となり湖となり、やがて海になってゆくように――。
現実の――現実であるはずのイサーラは、夢の海の中に飲み込まれて溶けてしまう。
主体が逆転し、ニホンジンの女こそがイサーラの原型であるように思えてくる。
自分が自分でなくなっていくような気がした。
その感覚はイサーラをひどく不安にさせ、世界と自分の繋がりとを希薄にさせた。
――あまりに怖くて心細くて、誰かに、何かにすがりたかった。
そんなものはただの夢で、イサーラという人間はここに確かに存在するのだと言ってほしかった。
両親に打ち明けても怪訝そうな顔をされて怪しい医者を紹介されるばかりで、友人たちにはなおさら言えない。
だが、堅実で常識的で寛大なピエトロなら。仮にも自分の伴侶となるこの人なら。
彼なら、大丈夫だと言ってくれるのではないか。受け止めてくれるのではないか。
そう思って、あの日打ち明けたのだ。
いままで胸にしまいこんでいた重いそれをすべて吐き出してしまうように。
分かち合ってほしくて、理解してほしくて。
――本当に愚かだった。
『何を言ってるんだ? どうしたんだイサーラ。また……気分でも優れないのかい?』
全神経を研ぎ澄まして待ったピエトロの反応は、それだった。
いつもより少し困ったような顔をして、けれど常識的な彼は、考え得るもっとも妥当な考えに行き着いたのだ。
また気が塞いでいるだけか。
いつものように。予定を急遽とりやめにして、気分が優れないからと休むときのように。
『疲れているのだね。ゆっくり休むといい』
僕のことは気にしないでいいよ――。
いつもと同じ寛容と良心から、ピエトロはそう言った。
イサーラの全身は冷たくなっていった。
さらけだした心が、受け止められずに地面に落ちて、壊れてどろどろと流れていく。
それでもピエトロにすがりついて、何度も何度も説明した。
わかってほしかった。
だがしまいには彼はひどくわずらわしそうな顔をして、医者に診てもらったほうがいいと言ったのだった。
受け止められなかった心は行き場をなくして漂い、イサーラは空っぽになった。
それから婚約を白紙に戻されるまでのことはよく覚えていない。
けれどピエトロとはもう以前のような関係になれなかったから、いま考えれば仕方のないことだったと思う。いや、婚約を破談にする以外にありえなかったのだ。
ピエトロの反応はもっともなものだった。
誰だって、別の世界の別人の記憶が、などとといった話は信じられないに決まっている。ピエトロが冷たい人間なわけではない。
だから――。
イサーラは何度も自分に言い聞かせた言葉をまた唱え、息を吐いた。
「何を言われたんだ?」
ジュリオが親しげな口調で、イサーラの呪文を無駄にするようなことを言う。
イサーラは渋面になった。腹が立つが、ここで怒鳴り返すこともできないのは、ジュリオに別に悪気があるようには見えないことだった。
馴れ馴れしいにもほどがあるが、不思議とジュリオはそれが許される。
この幼なじみは無造作に相手に歩み寄って、相手の本音や弱音をさらりと引き出してしまうところがある。
付き合いだけは長いイサーラは、そのことをよく知っていた。
その何気ない馴れ馴れしさを、自分を特別に想ってくれている白馬の騎士などと勘違いしてはいけないことも。
今度は幼い頃の忌々しい思い出までもが蘇りそうになり、イサーラは頭を振った。
「たとえピエトロに何を言われたところで、あなたに関係ない。用件があって私に会いに来たんなら、早く済ませて帰って」
「冷たいなぁ。俺に構うことほど重要なことってないよ? ますます何を言われたか気になるし」
「鬱陶しいわ。……ってちょっと! 実験器具に触らないで!!」
暇をもてあました子供そのものにジュリオが棚の器具を無造作に触り、イサーラは慌てて立ち上がった。ジュリオのやたらと固くて縦に長い体を押しやる。
――とたん、いきなり肘をつかまれた。
「記憶がなんとかって言ってたっけ?」