「ちょ、ちょっと、ハリエットと付き合いはじめたのって三ヶ月前からって……」
「そうだったっけ」
ジュリオは不思議そうな顔をする。もはや興味を失っていると言わんばかりの様子だ。
ハリエットという女性とは友人でもなんでもないが、こんな態度をとられるハリエットが哀れな気がして、イサーラは少し眉根を寄せた。
「喧嘩でもした?」
「……そうなるのかな。俺に、他の女性と会うな話すなってしつこく言うんだ。女性とは一切付き合うなって? 社会での必要な付き合いも、友達すらも制限しようとしてきてさ、いやになった」
辟易した様子で、ジュリオは気怠く髪をかきあげる。
イサーラは肯定も否定もしかねて、なんともいえない気持ちで顔をしかめた。
ジュリオの言い分もわからなくはない。しかし、色恋沙汰はどうでもいいイサーラにも、ハリエットが心配するのも無理からぬことなのではないか、と思う。
――こうやって自分のもとをいきなり訪れたりするところもそうだが、ジュリオはよくいえば性別関係なく交友関係が広くて気さく、わるく言えば無神経で女性をよく誤解させる。
本人は友達として優しくしているつもりで、ただの親切にすぎなかったとしても、たとえば泣いている女性を慰めたり、いかにも心細げで支えを必要としている女性にエスコートしたりということをやっていれば、誤解する者は必ずいるし、恋人がいれば嫉妬もするだろう。普通、恋人がいればそこまでの親切はしない。
しかしジュリオはやる。
一応は女性である自分のところに、こうしてふらふら遊びにくるのもよくないはずだ。――自分とジュリオはほとんど親戚も同然の関係で、疑うのも馬鹿らしいというのは、二人の付き合いを知らぬ者にはなかなか理解しがたいようなのだ。
ジュリオ自身はわりと鷹揚であるし、人なつこいところがあって悪い奴ではない――とイサーラは思うのだが、女性関係にはしばしば呆れざるをえない。
誰もが誰も、自分のようにジュリオを異性として見ない、というわけではないのだ。
イサーラは浅く息を吐いた。
ハリエットとの関係が終わって多少暇になったから、思い出したように友人(イサーラ)のところに来たということか。
「サラ、こんなところにこもってないで出ておいでよ。先日の夜会……またろくに人と話もせず帰ったんだって? それでこの小屋にはずっと引きこもるなんてことしてたら、ますます変な噂が立つじゃないか」
「……余計なお世話。私にはやるべきことがある」
はあ、とジュリオは気怠げな息をついて唇の下に手を当てた。
「君が夜会とかをことさら避けるようになったのってさ……やっぱりあいつのせいなの。なんて言ったっけ、あの……元婚約者。ピエトロなんとかだっけ」
「関係ない」
イサーラはぴしゃりと言ったが、かすかに頬が強ばるのを抑えきれなかった。
眉をひそめる。暇にあかせて、この男はわざわざこんなことを言いに来たのだろうか。
(……関係ない)
イサーラは声なき声でもう一度つぶやく。
あの時のような痛みと衝撃はもうないが、彼――婚約者であったピエトロのことを思い出すと、それでもまだ胸が鈍く軋む気がしてしまう。
『君は一体――何を言っているんだ……?』
困惑と疑問が強く浮かぶ顔。あの時まで、温厚な彼が自分にあんな表情を見せたことなどなかった。
イサーラは静かに手を握り、その表情を記憶の奥底へと追いやろうとする。
(……ピエトロは悪くない。私が悪かったんだ)
そう自分に言い聞かせ、ピエトロのあの顔を、あの言葉を振り払おうとする。
仕方ない、ああなって当然のことだった――。
「……おーい、サラー?」
ひらひらと目の前で振られた手に、イサーラははっと意識を現実に戻した。
こちらに屈み込んで手を振っているジュリオの姿に思い切り顔をしかめ、幼なじみの手首をぞんざいに押し退ける。
「思いっきりピエトロに原因がありますって顔をしてるじゃないか」
「……違う。もうピエトロのことはいい」
「なら、なんでそんな顔をするんだ。ピエトロってあの真面目しか取り柄のない男だろ。なにか言われたんじゃないのか?」
軽い口調で、ジュリオはいきなり核心を突くようなことを言う。
イサーラは黙った。予測もしないところから痛いところを突かれ、うまく取り繕えなくなる。
いやでも思い出させられる。
――ピエトロは、親の決めた婚約者だった。お互いにそれがわかっていたし、性格もそこまで合わないわけではなかったから、ごく普通に婚約者としての付き合いが続いた。
彼は常識のある、どちらかといえば寛容な性格の男性だった。
イサーラはその頃、多少気分がましになる日とひどく気分が塞ぐ日とが不安定に続いていた。
土壇場になってどうしても気分が優れず予定を急遽変更するときもあったが、ピエトロは寛大に受け入れてくれた。
いま思えば、そこまで熱のある関係ではなかったから期待も落胆もなかったのだと思う。
しかしあまりに気が塞いだ様子のイサーラを見て、親は高名な医師から果ては怪しげな町医者まで呼び寄せては娘を診せた。
そして誰も症状を改善させることはできなかった。
――イサーラからすれば当然だった。これは治るたぐいの病ではない。
言うなれば、深い悩みなのだ。
あるときから、イサーラは誰のものとも知れぬ記憶を思い出すようになった。
そこは見たこともない世界で、見たこともない服を着て見たこともない姿の自分がいる。
その記憶の中では、イサーラは『ニホンジン』という黒髪黒目の部族の、薄い目に低い鼻の平坦な顔をした女性になっていた。