妹のため婚約破棄した令嬢を、坂の上で待つ人は5

 ヴィートが大きく目を瞠った。困惑、驚愕――かすかに息を飲み、それから彼もまた顔を歪めた。まさか、と低い声がこぼれる。

「フォシアは嫌がったわ。とても。エイブラの息子は、いかにも将来を約束するというふうで何人もの令嬢に近づいては、もてあそんで名誉を著しく傷つけている。そうでなくとも、フォシアにとって誠実さの欠片もないエイブラの息子など嫌悪と恐怖の対象でしかない。両親だってフォシアを守ろうとした。でもエイブラの息子はそれで余計に醜くしがみつくようになって、お父様・・・に泣きついた」

 ――これまでと同じように、と呪いと侮蔑をこめてわたしは言った。

「……知らなかった。なぜ、相談してくれなかった?」

 ヴィートは悔しさでも覚えているかのように歯噛みして、わたしに向ける眼差しに鋭さを加えた。
 わたしは目を伏せる。

「……巻き込んでしまうと思ったから」

 歯切れ悪く、そう答える。――半分真実で、半分は嘘だ。
 外聞が悪いというのもあったし、なんとか内々で処理して――いずれフォシアとヴィートが婚約するなら、厄介ごとなど知られないほうがいいと思ったからだ。

「どこまでも、俺はルキアにとって部外者なんだな」

 ヴィートはかすかに自嘲するように言って、わたしの肩が揺れた。
 声を荒らげて糾弾されずとも、ヴィートを傷つけてしまったとわかるのが何よりつらい。
 深いため息が耳をつく。押し殺した息を無理矢理逃しているかのような。

「……それで、エイブラは何をしたんだ?」

 ヴィートは眉間に深く皺を刻んで言う。
 わたしは手を握り、苦さと忌々しさを噛みしめた。

「はじめは、穏便な人物を装って接触してきたわ。フォシアを息子の婚約者に欲しいって。家格ではとうてい釣り合わない。エイブラのほうが上よ。だから両親も断らないと思ったのでしょう。でも、両親は断ったわ」

 両親がフォシアを溺愛しているのは、わたしが誰よりも知っている。
 ――それを抜きにしても、フォシアは若く美しい娘だ。こんな考えはいやだけれど、引く手数多で、手駒としては非常に有用なのだ。エイブラは有数の富豪だが、他にもいい嫁ぎ先はたくさんある。

「……それでもエイブラは……正確にはエイブラの息子がというべきかしら。諦めなくて、何度も持ちかけてきた。それが高圧的な態度になり、脅迫に変わるまでさして時間はかからなかったわ」

 父にしろ息子にしろ、欲しいと思ったら手に入れないと気が済まず、後で捨てるくせにとにかく一時でも手に入れて貪らなければ気が済まないということだろう。
 父親はうまい捨て方をするが、息子は下手という違いだけだ。

 ――唾棄すべき親子。
 わたしも両親もフォシアも、そんな思いを同じくしていた。

 知らなかった、とヴィートはまたうめくようにつぶやき、歯噛みした。

「フォシアが逃げるためには、修道院に入るしかないようだった。でも修道院すら、抜け道がないわけではないわ。エイブラの財と人脈を用いれば、修道院から引きずり出すことも難しいことじゃない。なにより、どうしてあんな忌まわしい親子のために、フォシアが残りの人生を閉じこもって過ごさねばならないの?」

 わたしの声は自然と荒くなる。
 修道院は、傷つき悩んだ者が信仰だけを頼みに最後に行き着く場所だ。また、女性だけの修道院もいくつかある。神殿よりもひろく、世俗に疲れた人々を受け入れる。
 基本的には俗世と隔離されるはずだが、いまや純粋な信仰と存在意義を保っている修道院のほうが少ないだろう。

 エイブラとその息子に対する怒りや憎しみ、嫌悪がぶり返して胸を騒がす。
 それが少し落ち着くまで待ってから、言葉を続けた。

「――修道院へ入る以外に、もっと確かな方法が一つあった。エイブラには敵も多いの。王家の方々はともかく、家格や財力でほとんどの人間は比べものにならないけれど、一つだけ拮抗しているところがあった」

 感情の波風をたてぬように言ったつもりが、ヴィートは弾かれたように目を瞠った。
 まさか、と低く短いつぶやきがこぼれる。

「あの坂の上の神殿……太陽の神殿の神官長よ。言葉よりも先に信心を覚え、己の言葉よりも戒条の言葉を発したほうが多いほどとされ、己の死すら信仰の証拠にかえるであろうという筋金入りの神官――」
「……聞いたことがある。バーナード氏か」

 ええ、とわたしは短く首肯した。
 太陽の神殿は各地にあるが、あの坂の上の神殿はとりわけ特別だ。その昔、太陽に生け贄を捧げる儀式があって、かの神殿で儀式が行われたのだという。古くから存在し、権威ある場所なのだ。必然、そこのもっとも信仰心篤き神官が神官長となる。

 大神官はすべての神官の頂点に立つといわれているが、都心部にあって形式的な意味が強いのに対し、神官長は実際にもっとも敬意を集め、他への模範として信仰を保つことを求められ続ける者ともいえる。

 ただでさえ正反対といえる立場なのに、清貧そのもののバーナードと、その真逆の生活を送るエイブラとでは油と水ほども相容れない。

「世俗の人々は金銭で動かすことができるけれど、神殿の関係者ともなればそうはいかない。神官は人々から一目置かれる存在であり、その神官たちから絶大な支持を集めている神官長ともなれば、エイブラといえどもバーナードは厄介な存在よ。バーナード氏自身も苛烈な性格で、たびたびエイブラに対して手厳しい批判を加えている。エイブラはバーナード氏に弱みをみせまいと神経を尖らせているわ。――だから、バーナード氏を頼ったの」

 ヴィートはまたわずかに片頬を強ばらせた。自分ではなく、面識すらないバーナードを頼ったという事実が彼を傷つけてしまったのかもしれない。

 ――こちらが頼ることで、エイブラを忌み嫌うバーナード氏にとっても有用な攻撃材料を与えるわけだから、単純に利益が一致したのだ、ともっともらしいことを言ったところで、言い訳にしか聞こえないだろう。

 そしてこの先の言葉に言い淀んで、わたしは無意識に目を伏せていた。

「……それから?」

 わたしのためらいを察したように、ヴィートは言った。
 少しの間、わたしは言葉を探しながら息を整えた。

「……バーナード氏はエイブラとその息子の非道に憤ってくれたわ。この件を公にしてエイブラを非難してもいいと言ってくれた。でも、いくら当代一の敬虔な神官とはいえ、ただで悩める者を助けてくれることはなかったというわけね」

 そう吐き出した自分の口元がかすかに引きつったのは、軽い嘲りが抑えきれなかったからだろうか。
 エイブラほどではないにしろ、バーナード氏も決して、世間でいわれるような模範的神官ではなかったということだ。

「見返りを、求められたと?」

 ヴィートの顔が険しくなり、その声がはっきりと鋭利な糺弾の響きを帯びる。
 ええ、とわたしは短く、できるだけ無感情に言った。

「金銭を要求されたのではないわ。バーナード氏もそこまでは落ちていない。求められたのは……フォシアの身よ」

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