ひゅっとヴィートが息を飲んだのが聞こえた。太めの形の良い眉がはねあがり、はっきりと嫌悪と怒りを露にする。
「まさか、それじゃエイブラどもと変わらない――」
わたしはすぐに頭を振った。
「……自分の汚らわしい欲望のためにバーナード氏はそう言ったのではないわ。彼の直轄たる太陽の神殿に――あの坂の上の神殿に、必要なものだったの」
振り上げた拳の振り下ろし先を失ったように、ヴィートの怒りの中にためらいがよぎった。
「どういうことだ。詭弁ではないのか?」
「……おそらく違うわ。バーナード氏は色欲に溺れているようには見えない。フォシアの身が必要といったのは、フォシアというより、純潔の、若い娘が必要だからということなの。それもできれば身分のある者がいいとのことよ。あの坂の上の神殿で、祭司の一人として必要であるということらしいの」
――こちらの反発を予期していたのか、バーナード氏は己の潔白を証明するかのように、わざわざ神殿内の記録文書まで持ち出して、説明した。
権威ある坂の上の神殿で古から行われてきた生贄の儀式があり、その祭司としてフォシアが欲しいという。
いまは人の生贄を捧げることはないが、家畜の贄を捧げる際、祭司としてなるべく清らかな身の乙女が必要になるのだという。
それはかつて、人の生贄のほとんどが清く若い乙女だったことに起因する。世俗の汚れにできるだけまみれていない乙女が必要で、かつては神殿が孤児をひきとり、祭司の乙女にするべく育てていたが、いまとなってはエイブラのような汚らわしいもののせいで神殿の権威も落ち、孤児を育てる余裕もなくなってしまった――。
「……自分の直轄たる神殿の中でなら、エイブラどものような汚らわしい者どもからも完全に守ってやれる。バーナード氏はそうも言ったわ。でもそれって結局は……エイブラどものせいで、フォシアは神殿に逃げ込まなくてはならなくなる。余生を勝手に決められ、ねじ曲げられてしまうということでしょう」
――それは許せない、理不尽だ。フォシアには何の咎もないというのに。
わたしはヴィートにそう言った。本心からの言葉だった。けど、それはすべてではなかった。
神殿の中にいる神官たちは、ほとんどが男だ。いくら色欲を忌み嫌うバーナード氏の厳しい統率下にあるとはいえ、フォシアのように目を瞠るような美少女が一人放り込まれたらどうなるか。
――それにフォシア自身、異性の視線にすら怯えてしまうようなところがある。
厳しい神殿の中でたとえ身の安全は守れても、フォシアの心はきっと壊れてしまう。
「……だから」
わずかな沈黙のあと、ヴィートは低く押し殺した声をもらした。
わたしは目を伏せたままだった。それでも強い視線を肌にまざまざと感じた。
「だから――フォシアの身代わりとなってルキアがバーナードの神殿に入ろうとしたのか」
わたしは答えなかった。答えられなかった。けれどそれはもっとも狡い肯定の返事だった。
「フォシアのため、か。ああ、本当に君は……」
ヴィートの声に、乾いた自嘲が滲む。その声がわたしの耳に突き刺さる。
――俺のことなどどうでもいいらしい。
ヴィートのそんな言葉が、胸に痛い。
「ちが、う……」
「何が違うんだ? フォシアのためと自分の人生まで擲つつもりだったんだ。俺との婚約を破棄することにも、少しのためらいも覚えなかったのか? わずかな足枷にもならなかったんだろう」
自制した声の中にもヴィートの隠しきれない怒りが滲んで、わたしは喉を締め付けられたように苦しくなる。
何を言ったところで、きっと言い訳でしかない。
――こんなにヴィートを傷つけるなど、怒らせるなど思いもしなかったのだ。
更にたちの悪いことに、ヴィートがわたしのためにこれほど怒って傷ついていることに――ほの暗い喜びさえ覚えている。
いまさらどんな言葉もヴィートを苛立たせるだけかもしれない。
でも、誤解してほしくないことが一つだけあった。
「……違うわ。わたしは、ヴィートをどうでもいいだなんて思ってない」
ヴィートの冷たい怒りを正面から見る勇気はなくて、自分の足元を見たまま言葉を絞り出す。
何が違うんだ、とヴィートが冷ややかな自嘲を含んだ声で言う。どんな言い訳も聞きたくない、けれど沈黙で逃げることはもっと許さないとでもいうように。
わたしは何度も息を飲み込み、臆病に答えを濁そうとする自分を奮い立たせた。
「……怖かったの」
ようやくのことで、その言葉を絞り出す。ヴィートが訝るようにかすかな沈黙を見せた。
わたしの体は無意識に身震いする。
――臆病なわたし。卑怯なルキア。それを、ヴィートにだけは知られたくないと思っていた。