唐突に左腕をつかまれ、わたしはびくっと震えた。顔を上げる。ヴィートの目と絡み合う。穏やかな色に見えたヘイゼルが、いまはなぜか仄暗く冷たさを帯びている。
「待つのは、もうやめる」
そう言って、ヴィートはわたしの腕をつかんだまま動く。坂の下へ――神殿とは真逆の方向へ。
「ま、待って!」
強い力に、足に体重をかけて抗って叫ぶ。
けれどヴィートは、待つのはもうやめると宣言したせいか、止まってくれない。
彼の力は想像以上に強かった。かつてこれほど強引なことをされたことはない。
頭がひどく混乱して、体はうろたえている。
ヴィートは力尽くで、わたしを連れ戻そうとしている。それだけはわかる。
「――恨むのなら恨めばいい。ルキアは俺に無理矢理連れ戻されるんだ」
振り向かないまま、ヴィートのこぼした言葉が耳を打った。
わたしははっとする。――ヴィートを恨む?
思いもしなかった言葉をかけられ、ただただ困惑する。
強引に連れ戻されようとしているのに、ヴィートに乱暴さなど感じない。
彼はこんなことをするような人ではない。
なら――わたしがそうさせてしまっている。
わたしがヴィートを、恨むとでも思っているのだろうか。
ぎゅっと目を閉じる。――言いたくなどない。知られたくない。自分の、こんな醜い部分を。
でも、このままヴィートを悪者にすることなどあってはいけない。
「恨むなんて……! わたしは……善良でも、慈悲深くもない……っ!」
言葉を絞り出し、立ち止まらせるためにヴィートの手を引く。
耳の奥で、鼓動が速く激しく鳴りはじめる。
ヴィートが振り向く。その目にかすかな驚きが表れる。
どくどくとうるさい自分の心音を聞きながら、わたしは裁きを待つ罪人でもあるかのように彼の目を見ていた。
つかんだ手は、離れなかった。
「言わなきゃ、わからない」
短く繰り返された言葉に、わたしははっと息を飲む。
「――俺たちは話をする必要がある。そうだろう」
ヴィートの声は強く、熱を帯びて響く。緩まることのない手は、真実が語られるまで離さない――言葉よりも、雄弁にそう主張しているかのようだった。
坂を下って一番近くにある村の宿泊施設に、ヴィートは部屋をとっているようだった。
様々な理由で神殿に参拝しに行く人間がいるためか、通行上にある村は、希望どうあれ宿泊施設を備えていることが多い。
かといって大きな、設備のしっかりした宿屋ではない。
民家の二階の小さな一室で、わたしはヴィートと向き合うことになった。
まだわたしの逃亡を少し警戒しているのか、部屋の扉を自分の背に隠すように立っている。
一方でわたしは、藁をしきつめて布をかぶせた寝台代わりのものに座らされ、さまざまな意味で落ち着かなかった。こういった場所で、付添人をまじえずヴィートと二人きりになるのははじめてだ。
それで、とヴィートは切り出した。
「……どうして、神殿に逃げようとしたんだ」
怒りこそなかったものの、声にはまだかすかな尖りがあった。わたしは両手を強く組み合わせ、数拍の間、呼吸を整えた。
何から言えばいいのか。どんなふうに言えばいいのか。――ヴィートに真実を知られることをおそれる自分がいた。
けれど、もう逃げられない。
静かに息を吸った。
「……大神官のエイブラ様に、ご子息がいるのは知ってる?」
そう切り出すと、予想もしない話題だったのか、ヴィートがかすかに驚きと怪訝まじりの表情を眉間のあたりに浮かべた。それでも、うなずく。
同時に彼の表情から、エイブラに好感を抱いているわけではないとわかって少し安堵した。
大神官とは、神官をまとめる者のことだ。その地位と権限のかわりに、清らかな身で生涯神殿に仕えること――生涯独身で、一切の性行為を慎むことが求められる。
つまり大神官であれば、子はおろか妻帯などあってはならないのだ。
しかし当代の大神官エイブラは、なかば公然とそれを破っていた。家は大富豪であり、婚姻によって貴族社会にも深く繋がりを持ち、大神官の地位さえ金で買ったと言われている。
そのエイブラに顔がそっくりの息子がいた。表向きは親戚の子となっているが、エイブラの実子であると大多数が思っている。
エイブラもたいがい金と権力を濫用し、女性関係が派手であったが、遊び慣れているというべきなのか、どの女性とも比較的穏便な終わり方をしているらしい。エイブラの異性関係が表立って糾弾されないのは、お相手の女性達がわめき立てないからだという話だった。
――しかしエイブラによく似た息子は、エイブラほど女性との付き合い方が上手くはないようだった。
「……エイブラの息子は、父親ほどうまい立ち回りができない。でも女好きの度合いは親を上回る勢いなの。これまで、もめ事を起こしてはエイブラが金の力でもみ消していた」
ヴィートしか聞いている人間がいないから、わたしは取り繕うのをやめた。
――エイブラとその息子に、敬意など欠片もない。
道徳的にどうかと思うところはあるけれど、直接関係してこないのであれば、エイブラとその息子をこれほど嫌悪することもなかっただろう。義憤を覚えるほど、わたしは正義感に溢れた人間ではない。
――関わったから、巻き込まれたからこれほど彼らを嫌悪するのだ。
自然と、吐き捨てるような口調になった。
「……エイブラの息子は、フォシアに目をつけたの」