ジュネは帰宅すると、数少ない使用人とともに晩餐の支度をしながらミヒャエルの帰りを待った。
夜の闇が降りてすぐ、ミヒャエルは帰った。
ジュネはいつものようにそれを迎え、ミヒャエルもまたいつものように穏やかに答え、二人は晩餐の席についた。
給仕の他には夫婦二人だけの穏やかな晩餐だった。
互いに、今日の出来事を話す。別に特別なことなどなにもない。――ただ一つ、ジュネは医者のところへミヒャエルのことを聞きに行ったことは伏せた。
やがて、会話が途切れた。だが沈黙もさほど苦にはならない。
ジュネはミヒャエルをそろりとうかがった。こうして見る限り、ミヒャエルが思い悩んでいるようには見えない。くつろいだ様子でワイングラスを傾けている。
自分の勘違いであったなら、それでいい。
ジュネはいくぶんか気楽に切り出した。
「……ミヒャエル、何か悩んでいることはない?」
食後のワインを傾けていた手が、一瞬止まった。
紫の目がジュネを見た。
「悩んでいることって?」
「その、ここのところ、少しいつもと様子が違うから……何か考え事でもあるのかと思ったの」
ミヒャエルの眼差しに妙な力を感じて、ジュネはどぎまぎした。もとから、夫の目には力がある。
とほうもない怜悧さというのだろうか。
だからこの目には、嫉妬、浮気という言葉はあまり似合わない。
ミヒャエルに想いを寄せるあまり、他の女性があらぬことを吹き込んで、ミヒャエルは不安になった――そんなことがあるのだろうか。
もしそうだとしたら、自分からそんなことを聞くのはなんだかうぬぼれが強すぎる気がした。
それでも、ミヒャエルに対する気持ちをわずかでも疑われたくない。
――自分には、ミヒャエルだけなのだ。
「もし、私に確かめたいことがあるなら、何でも聞いてほしいの。どんな些細なことでもいいわ」
「……どんなことでも?」
紫の瞳が少し見開かれた。惑うような表情だった。
やはりミヒャエルには悩みがあるのか。もし浮気を疑われているなら断固否定しなければと固く決意して、ジュネはうなずいた。
言葉を選ぶかのようにミヒャエルはしばし思考し、赤と青のまじった瞳でジュネを捉えて言った。
「僕を見つけたときのことを、もう一度聞かせてほしい」
静かな声だった。
ジュネは、いきなり脳天に雷を受けたかのような衝撃を感じた。
どこか浮かれた熱を帯びていた胸の内が一瞬で凍りつく。
――見つけたとき。
気を失い、倒れていたミヒャエル。そのまま消えてしまいそうなほどに青白い頬。
自分はそれを呆然と見た。それから……。
「どう、して……?」
ジュネの声はかすかに震えた。あまりにも予想外の問いだった。否、油断していた。
もっとも聞かれたくないことだった。
ミヒャエルが過去に見切りをつけたときから、一度だって聞かれたことはなかった。
ミヒャエルはかすかに眉をひそめ、目に怪訝そうな色をのぼらせた。
「どうしたんだ? どうしてそんな顔をする?」
「な、なんでもないわ。ただ、いきなりのことだったから……その、気軽な話題ではないし」
ジュネはかろうじてそれらしい弁明をした。
常に穏やかなミヒャエルはこのときもすぐに眉間の皺を解き、そうか、と納得する様子を見せた。
「深刻な相談をしようというのではないんだ。ただ、他の人との会話の中で過去の話になった。僕の過去といえば、ジュネに見つけられた日が一番古いものだ。いまさら自分の出自を本気で探ろうとは思っていないけど、なんとなく聞きたくなった。いまなら僕は落ち着いているし、まともにものも考えられるし」
ジュネに発見されて直後、ミヒャエルは記憶を失って半ば混乱していた。何度も何度もジュネに発見当時のことを聞いたが、それをまともに考えられてはいなかった――そういうことだろう。
夫の目から逃れるようにジュネは顔をうつむけ、そう、と答えた。
震える声を、喉でかろうじて留めた。
――記憶を取り戻してしまったのかと思ったのだ。
結婚直後までは散々苛まれていた不安。最近ようやく忘れられるようになっていた。
だが自分の頭から消えかかっても、現実からは何も消えていないのだと思い知らされる。
「……あなたは、泉の側に倒れて気を失っていたわ。身を証明するようなものは何も持っていなかったし、周りに人もいなかった」
何度も繰り返したその言葉を、ジュネはまた繰り返す。
余計なことは一切言わない。まったく同じに、まったく正確に。――あたかも台本を読み上げるがごとくに。
どこかの貴公子がなみなみならぬ事情によって、命からがら逃げ延びたのではないか。命こそ助かったが、金目のものなど一切をはぎ取られてしまったのではないか。
もっともらしい推測はそんなものだった。
けれどこの村においてそれはない、と簡単に反論できる。
ミヒャエルの発見された泉――村の外れ、森の中にぽっかりとあいた場所にその美しい泉はある。
こんこんとわき出る清水の周りは、いったい誰が、いつ建てたものかわからないが、古く頑丈な石の台で囲まれている。
《降臨の泉》と呼ばれているそこには、天使が降りると言われる。
泉の澄んだ水を口にすれば、いかなる病も怪我もたちどころに治るとか、健康なものは寿命が延びるとか、悪しき者は改心するとか――。
村の者はみな、窮したときに、泉に行って快癒や救済を祈る。そこに降臨するはずの天使が聞き届けてくれるのを期待して。
けれど神聖であるということ以外、泉に特別なものは何もない。盗賊が狙うようなものは何もない。町の者も無闇に近づかないから、追い剥ぎがそこに潜んでいるということもない。
また、ミヒャエルがどこかの貴人であれば、行方が知れなくなって探す者もいるだろう。だが、この町にそういった捜索の手の者が来たこともない。
「……そうか。手がかりは何もない……」
ミヒャエルはぽつりとつぶやく。手がかりはない。だから探ることもできない。
――それがこれまでの結論だった。
「唯一の手がかりは、一番にその場にいた君だ。だがその君が言うのだから、きっと、いい加減過去は諦めろということだな」
ミヒャエルは優しく笑って、そのまま話を変えた。
ジュネは喉の奥に重い塊を押し込められたように感じ、話題を変えられたことでようやく息ができた。
――記憶を取り戻したいのか。
そんなことは、おそろしくて聞けない。
『記憶が戻っても、私の気持ちは変わらないよ』
かつてジュネが感じていた不安を察して、ミヒャエルはそんなふうに言ってくれた。
記憶が戻れば、捨てられてしまうのではないか――そんな不安を抱いているのだとミヒャエルは思ったのだろう。
だが、そうではなかった。
身分違いだとか、そんな優しいものではない。
ジュネは怯えを隠しながらミヒャエルをうかがう。真意を探ろうとする。
だが完璧な夫は常と同じく、耳に心地良い声で他愛のない話をした。
それ以後、過去の話を持ち出すようなことはなかった。