その晩餐以来、ジュネはしばらく怯える日々を過ごしたが、ミヒャエルは何もなかったかのように変わらなかった。
否、いつもより情熱的ではあった。無言のうちに、ジュネの抱えた不安や焦燥を解きほぐそうとしてくれているかのようだった。
ジュネはそれにゆるゆると安堵していく。
――少なくとも、ミヒャエルに嫌われてはいない。
嫌われたり、疑われたりしていれば、こんなに行動で愛情を示してくれることはないだろう。
（大丈夫……大丈夫よ）
考えすぎて、不安が少々暴走しているのだ。
――あの秘密を棺桶の中にまで持っていきさえすれば、この幸せは生涯続く。
何も、難しいことではない。
ジュネはつとめて自分にそう言い聞かせ、忘れようとした。
だが記憶を押し込めようとすればするほど、水にいくら力を加えて圧迫しても閉じ込められぬように、あの“泉”が瞼の裏に浮かんだ。
村の奥の神聖なる泉。
その泉の水底から、暗い声でささやく。
――“あれ”が、誰かに見つかってしまったのではないか？
そう思ったとたん、ジュネは芯まで凍りつく。
（……そんなはずはない……）
あれは、誰にも見られていない。あれの隠し場所は、他人がそう訪れるところではないのだ。
“あれ”を埋めて以来、ジュネもあの場所に近づいてすらいない。
しかし、それはつまり――そこがどうなっているか知らないということだ。
ジュネは息を呑んだ。不安は泉の記憶とまじり、振り払おうとすればするほど、底知れぬ沼に引き込まれてゆくようだった。
ミヒャエルの姿が遠くなり、診療所に向かったのを確かめてから、ジュネは家を出た。
使用人たちには、少し周囲を散歩してくると言っておいた。
供を一人もつれない完全な単独行動だった。外套を着ると少々浮いてしまうかもしれないが、スコップを隠して持っていくにはこうするしかない。
日は中天にさしかかっており、人目を忍んで行動するには不向きだった。だが夜の暗闇では、“あれ”を掘り起こすのは難しい。
なるべく人の目を避けながら、町の北へ向かい、森へ入る。
ジュネの足は早くなる。木々の中に足を踏み入れ、進むたびに鼓動が乱れてゆく。
――もう二度とここに足を踏み入れまいと思っていた。
最後にここへ来たのは、“ミヒャエル”と出会ったときだった。
時間にしてほんの一年ほど前のことだ。こうして進むたび、まるで三日前のことのようにも思えてくるし、ずいぶんと長い時間が経ったような気もしていた。
あのときの自分は、なかば自棄になっていた。ダヴィドに婚約破棄され、逃げてきたばかりだった。
《降臨の泉》と聞いて、なんでもいいから自分を助けてくれと縋りたくなったのだ。
なんの敬意もおそれもなく足を踏み込み、泉にたどりつき、そして……。
木々の落とす影で森は翳りを帯びている。
それが、泉へと向かう者を自然と厳かな気持ちにさせるのかもしれなかった。しかしいまのジュネには、自分の抱えているものに呼応したような不気味な暗さに感じられた。
土を踏んで進むうち、やがて忽然と人工物が姿を現した。
白く、古い噴水台。その中にわき出る泉。
ジュネは一瞬怯み、立ち止まる。息を呑む。
思わず、周囲を見渡した。誰かに見られてはいないか――。
まるで盗人のような気分だった。
――否。気分などという問題ではなかった。
胸の内側で爆ぜるような速い鼓動の音を聞きながら、ジュネは目印を探す。
噴水から東に、十字に穴があいたような瘤のある木。
（……あった）
記憶と変わらぬまま、木はそこにあった。
外套に隠してきたスコップを取り出し、木の根元の土に突き刺す。
一瞬、それが小さな墓標のように見えた。ジュネの手はわずかに止まった。何を馬鹿なことをと自分を叱咤し、土を掘る。
ざく、ざく、と土を除く音だけが響く。
しばらくして、ひどく汚れた布らしきものが見えた。
（あった……）
土を除け、汚れた包みを取りあげる。包みはかつてハンカチであったものだ。
かすかに震える手で、それを開いた。
そして中にあったものを、ジュネは見た。
――それは、一対の金の腕輪だった。
薄いハンカチに包まれただけで、土中にあったというのにまったく汚れを寄せつけていない。
それどころか、淡い光を帯びている。太陽光の反射ではない――腕輪自体が淡く発光している。
これをここに埋めたときと変わらない。
――存在を忘れられ放置されても、この腕輪はまだ輝きを失っていない。
ジュネがかすかに震える指先を伸ばす。
それに触れようとした。
「――ジュネ」
