(……ミヒャエルも、子供がほしいのかしら)
ジュネはぼんやりとそんなことを思った。
ミヒャエルはとりわけ旺盛なほうではないと思うが、それほど淡白というわけでもない。けれどここのところ、頻繁で――情熱的のような気がする。
せつなげな顔。まるで縋ってくるかのような。
そう思ったとたん、ジュネは赤くなった。
恥ずかしいような、けれどそれ以上に酔って足元が浮つくような感覚に襲われる。
自分ばかりが想っているように感じていたミヒャエルから、求められている。
(……でも、)
どうしていきなり、とも思った。
それに、もう少し冷静になれば――ミヒャエルは何か、考え込むようなことが多くなったように思える。
ジュネに気づくと、すぐにいつもの穏やかな微笑を返す。あるいは常以上に、感情のこもった眼差しで見つめてくる。目が合う回数も、多くなった。
つまり、頻繁にこちらを見つめているということなのだろう。
それはただ愛情を表すものなのかもしれないが、ふいに不安の影が胸にさした。
ミヒャエルは――何かを思い悩んでいるのではないか。
そして、それを自分に言おうとして、言えないのだとしたら。
とたん、不安の影は更に冷たく、重くなった。
ミヒャエルが悩んでいるなら、それが何か確かめなければならない。
「……ミヒャエルが?」
町医者はそう言って、ジュネの問いに目を丸くした。
ミヒャエルが助手として仕えている医師のところに来ていた。今日、ミヒャエルは町の子供たちに絵本の読み聞かせをするため、教会に出ている。
ジュネは医者と二人きりになるなり、ミヒャエルが何かを悩んでいるのではないか――と切り出した。
記憶を失い、友人も親族もいないミヒャエルにとって、ジュネ以外に相談相手となる人物と言えばこの医者ぐらいだった。
それだけでなく、ジュネがミヒャエルを“発見”して以来、ずっとミヒャエルを診ているのはこの医者だ。
ミヒャエルにとっては父親ほどの年齢でもあり、医者は息子に向けるような温かな眼差しをミヒャエルに向けてくれている。
「いつも通りに思えるが……、何かあったのか?」
「……いえ、これといっておかしなことがあったわけではないんです。ただ、その……もしかしたらミヒャエルが何か、不安のようなものを抱いているのではと思って」
ジュネは少し頬を赤らめた。――まさか、夫が常より情熱的だからなんとなく気になって、などとは言えない。
そんなジュネの反応とは裏腹に、医者はふむ、と考え込むような仕草をした。
そうしているうちに、助手の一人である女性が部屋に入ってきた。
「あら……ジュネさん?」
目を丸くする女性に、ジュネは軽く挨拶した。この医師のもともとの助手がこの女性だった。
ミヒャエルと一緒にはたらいているが、円満な家庭を持ち孫も生まれていて、ジュネにとってもミヒャエルにとっても母親に近い存在だった。
「どうしたんです、もしかして体調が悪いの? あっ、もしかして子供が……!?」
「……いえ、そうだったらよかったのですけれど。今回は少し相談事があって来ました」
ジュネは苦笑いした。
おやまあ、この先生に、と女性はさも意外だというような顔をする。
「相談って、子供のことかい? それならあたしに……」
「先走るんじゃない」
医師が苦い顔をして叱咤する。
女性は興味と心配がいりまじったような調子で、ジュネを見る。
ジュネは、先ほど医師にした話を繰り返した。
「あのミヒャエルが?」
「私の気のせいかもしれませんが……何かご存知ありませんか?」
女性は腕を組み、首を傾げた。医者同様、すぐに思い当たるところはないというような様子だった。
「とはいえ、ミヒャエルのあの性格なら、ジュネに心配かけまいとひとりで抱え込むとこはあるかもしれない。おかしいと思い始めたのはいつごろ?」
そう聞かれて、ジュネはしばし考え込んだ。
具体的にいつ、と言われればそれは――強いていうならあの日、帰ってくるなり抱きしめられて、なんでもない、と言われた日だ。
「……二週間ほど前、でしょうか」
「ジュネに冷たくなったとか、態度がよそよそしくなったとかいうのじゃないんだね?」
「はい。むしろ……その逆、ですわ」
ジュネが気恥ずかしい思いで言うと、あらあら、と女性は冷やかすように笑った。
「ま、あのミヒャエルに限って浮気なんてことはないだろうし。となると、逆かねえ」
「逆……?」
「ジュネの浮気を疑っているとか。不安で、心配で、妻を引き止めようとしているってことだったりしてね」
ジュネは目を見開いた。
「私が浮気なんて……!」
「そりゃそうさ、あんだけいい男だもの。でもこっちがそう思ってたところで、よそよそしいの|逆《・》ってことはつまり、あんたのことを気にかけてるってことだろ。嫉妬とか不安とか、そういうものがあるってことじゃないか。そういう感情に男も女も関係ないさね。あのミヒャエルだって男だろうし」
女性はからりと笑って言った。
ジュネは目を瞬かせるばかりだった。
(嫉妬……、あのミヒャエルが?)
女性の言葉は、予想もしなかったところに光を当てるようだった。ジュネの耳の奥で何度も反響し、次第にそれが真実であるかのように思えてくる。
「そうそう、二週間前といえば、アンソニーのとこの娘が来てたね。あの子らがまたミヒャエルに何か吹き込んだのかもしれないねえ」
「え……」
「あまり怒らないでおくれ。アンソニーのとこの娘もほら、年頃だろ。あの年頃の娘なら誰でもミヒャエルに熱をあげる。ジュネと仲違いさせようと、もっともらしいことを何か言ったのかもしれないね。奥方はあんただから、どんと構えてればいいよ」
ミヒャエルはほら、真面目だから、と女性は言った。
ジュネは束の間、押し黙る。ミヒャエルに熱視線を送る女性は少なくない。
あの容姿で、あの性格なのだ。もう自分の夫なのだし、いちいち気にするものではない――そう思うも、やはりまったくの平静というわけにはいかなかった。
「……その娘さんが、私が浮気してるなどといったような嘘を吹き込んだと?」
「あくまで、そうかもしれないってことさ。一生懸命気を引こうとしていてねえ、可愛いもんじゃないか。ミヒャエルは受け流すだろうけど、そうされるほどに熱をあげちまうのが子供ってもの」
許してやりな、と女性は保護者のように言う。
ジュネも、ミヒャエルの妻としてまともにとりあわないのが正しいとわかっていた。
――だが一方で、よく知りもしない他人からの誹謗中傷が、無視できぬ力を持つことも知っている。
かつて婚約者であったダヴィドの不信を呼んだのは、見も知らぬ女性たちの悪意ある言葉たちだったのだ。あれも嫉妬が根本にあった。
ミヒャエルとダヴィドではまったく違う。ミヒャエルはダヴィドよりずっと冷静で聡明だ。周りに悪意を吹き込む親戚などもいない。
そうはわかっていても、無視するべきではない――そんな気がした。