辺鄙な町での暮らしは穏やかだった。
ジュネは、町一番の大きな館である自宅で一日を過ごす。
ミヒャエルはしばしば、この町にただ一人の医者の手伝いのようなことをするために出かけて行った。
ジュネがミヒャエルを発見した直後から、ずっと診てもらっていた医者だ。
ミヒャエルはしばらくジュネとともに、失った記憶を取り戻すため医師に頻繁に経過を診てもらっていた。
だが記憶は戻らなかった。過去を割り切ったあとは、礼の意味もあってか医者の助手のようなことをするようになった。
はたらかずとも、普通に暮らしてゆけるだけの資産はジュネが実家からもらっている――そうあっても、ミヒャエルは金銭のためだけではないからと、医者の手伝いを続けた。
ミヒャエル自身、少しでも医学を学びたいという気持ちがあるのかもしれなかった。
ジュネは、はじめは少なからず怯えていた。
――医師の手伝いをしているうちに、ミヒャエルが記憶を取り戻したら。あるいは記憶を取り戻す方法を見つけたら。
だがミヒャエルが記憶を取り戻すことはなく、取り戻すための方法もなく、本当にただ助手として誠実にはたらいているらしかった。
この日も、ミヒャエルは助手をつとめるために出かけて行った。
ミヒャエルはあの容姿であの性格なので、たいそう人気だという。
ジュネはそれに少し嫉妬を感じるときもあったが、ミヒャエルは他の女性に見向きもしないので、あまり目くじらをたてることはなくなった。
夫がそのようにして不在の間、ジュネはなにげなく自室を整理しはじめた。
都にいたときと違い、この地の館は規模も小さく、使用人も少ない。令嬢であっても、ある程度、自分の身の回りのことは自分でやらざるをえない。
ふと思い立って、鏡台の引き出しをあけた。しばしば使う装飾品の他に、小さな箱がある。
その箱を取り出し、蓋を開けると、品の良い金の首飾りがあった。
ダヴィドからもらったものだ。
婚約中、いくつもの贈り物をされた。婚約が解消されたあと、ほとんどは処分したのだがこれだけは手放せずに未練がましく持ってきてしまった。
単純に好みのものであるということもあったし、他の贈り物より思い入れがあった。
ジュネのために、ダヴィドが高名な職人に依頼してつくってもらったものなのだ。
受け取ったときの嬉しさ――自分は確かに愛されていると実感できた、喜びの記憶だった。
自分は確かにダヴィドに愛されていたと、何かすがれるものがほしくて、これだけは持ってきてしまったのだ。
だが結局、何の慰めにもならなかった。
『……君が、そんな女性だったなんて思わなかった』
ダヴィドの、驚きと軽蔑まじりの声を思い出す。
ダヴィドは魅力的な男性だった。その婚約相手に嫉妬した女性たちが、協力してダヴィドにあらぬことを吹き込んだ。
一人や二人から言われたことなら、ダヴィドもそんな言葉に惑わされなかっただろう。
だが三人四人となって、そのうち親族からもそれらしいことを吹き込まれれば――女性たちは、ダヴィドの親族にも吹き込むという周到さだった――いくら意思の強い人間でも、揺らいでしまう。
仕方のないことだったと、いまのジュネは思う。
『……君は私を騙していたのか? とんでもない悪女だったのだな』
ダヴィドの気持ちはそうして自分から離れ、間もなく別の女性と婚約した。彼なら、相手には事欠かなかったことだろう。
――だがそのダヴィドも、いまは結婚してあまり順風満帆とはいかないらしい、というのが友人の話だった。
ジュネは、友人に話題にされるまでダヴィドのことを思い出しさえしなかった。
いまはもうミヒャエルと結婚したからだろう。ジュネ自身も驚くほどだった。
あの頃――ダヴィドと婚約していた頃、少なくともダヴィドを他の男性より特別に想っていた。誤解を解こうと必死になり、泣き叫び、それがかなわず婚約を破棄され、自棄になって田舎に逃げるというほどには傷ついたのだ。
それが、世間一般でいう恋愛感情なのか、それとも優越感や虚栄心といったものであったのかはわからない。たぶん、そのどれもがいりまじったものであったのだろう。
冷静にそう考えられるのも、真実の愛を知ったからだ。
ミヒャエルという、真実の愛に出会ったからだ。
ジュネは首飾りを箱に戻すと、その箱ごと捨てた。
もはやいかなる過去も要らなかった。
欲しいのはいまこの瞬間とその先の未来だけだ。自分には、未来がいる。
「……ご夫婦ともに健康ですから、焦らずともお子は授かるでしょう」
老齢の助産婦が、穏やかに言った。
ジュネはうなずいたが、まだ身籠もっていないという事実を確かめたことでもあり、落胆は拭えなかった。
――ミヒャエルとの子供がほしい。
月を重ねるごとにその思いは強くなっていた。
子供がいれば、確かな証になる。ミヒャエルと自分の絆がもっと強固なものになる。
(……焦りはよくない、のよね)
助産婦の言葉を、胸の内でまた繰り返した。
結婚直後にあった不安や焦りは、ミヒャエルと過ごす日が増えるにつれ薄らいでいる。
他の女性がミヒャエルに向ける眼差しや好意に少し嫉妬する――そんな余裕すら出て来たほどだ。
助産婦が帰ってしばらくすると、ミヒャエルが帰宅した。
まだ夕方にもなっていない。日中に帰ってくることは珍しい。
「お帰りなさ……」
ジュネがそう迎えたとたん、いきなり抱きしめられた。
「み、ミヒャエル?」
突然の抱擁に一瞬ためらいながらも、すぐに抱き返す。
夫の腕は強く抱き寄せてくる。
「どうしたの? 何かあった?」
ジュネの声は自然と労るものになる。愛する夫に抱擁されて嬉しくないわけがない――だが、少し様子がおかしい。
ミヒャエルはしばらく答えなかった。
少ししたあとで、なんでもない、とだけ言った。
ゆるゆると腕が離れてゆき、ジュネは夫の顔を見上げる。そのころには、ミヒャエルはいつもの穏やかな微笑を取り戻していた。
「すまない。……ちょっと疲れてるみたいだ」
「そうなの? なら、しっかり休まないと」
ジュネは少し慌てた。ミヒャエルは真面目で勤勉だから、無理をしたのかもしれない。
疲れたというようなことをこれまで口にしたこともなかったから、余計に、よほど疲れているのだろう。
「……休みが必要かな」
ジュネはうなずき、離れようとする。だがふいに手を取られた。
紫の瞳と合った。そこに、はっと胸を衝かれるような光があった。
ジュネの手を取ったミヒャエルの手に、静かな力がこめられる。
ミヒャエルの求めているものを感じ、ジュネの頬に淡い熱がのぼった。
――まだ陽が高いのに、と小さくつぶやいてみたものの、それは抵抗らしい抵抗にもならなかった。
愛する者に求められる喜びに抗えるはずもなかった。