一目で、ただの女だとわかった。だがその女が戦士に守られ鼓舞するのではなく、自分が先陣を切って、《タハシュの民》の戦士さながらに戦い、味方を導いていた。
火の色、あるいは血の色に乱れた険しい顔――それでも一瞬、泣き出しそうな顔に見える。
(なぜそんな顔をする)
タウィーザは、女に向かって手を伸ばしかけた自分に気づいた。
何が女をそこまで駆り立てるのか。血に酔っているように見えて、ただの狂乱にも思えない。目にはまだ理性の光がある。
濡れたような瞳の中に、強烈な――意思の光が反射している。
喉が渇く。
(知りたい)
あの女のことを。何を思っているのか。どんな女なのか。
(――捕まえたい)
女はこちらを見ない。見たとしても、タウィーザという男がそこにいて意識を向けていることを知らない。ただひたすらに敵を捉え、後続の騎士たちにだけ時折振り向く。
その女を――この手に捕らえ、あの目をこちらに向かせて問いたい。
強烈にそう思った時、タウィーザは既に動いていた。
惨めに崩れて行く山の民の連合を横目に、女の後を追った。
せめてその女が何者であるかを突き止めぬ限りは、決してこの場を離れられなかった。
女は、味方らしき兵に《聖女》ヴィヴィアンと呼ばれていた。
聖女。この国で、癒やしの力を持つという異能の存在。
獣のように敵を屠り、血を浴びながら味方を導く目の前の姿とは似ても似つかない。
邪神と蔑むタハシュの血を飲み、タハシュを奉る者たちを屠って血に染まる聖女。
――ぞくぞくとした何かが、タウィーザの背を駆け上った。
(ああ……あんたは最高に冒涜的な女だ)
焦がれ、このまま留まってあの女を攫いたい自分を引き剥がすように、タウィーザはいったん王都から逃れた。
いまはまだ無理だ。失敗する可能性が高い。
(どうしたらいい)
目的は明確になった。痛いほどに心が叫んでいる。体中で鳴っている。
(どうやったら、あの女を手に入れられる)
都が遠ざかっていく。かつて、同じ故郷で生まれ育った者たちも。
タウィーザはしばらく慎重に王都周辺から距離を置き、身を潜めた。その間に聖女ヴィヴィアンの情報を集めた。
ヴィヴィアンは平民出身の聖女の一人で、聖女としてはなかなか優秀な異能を持っていたという。
だが彼女が幸運なのは、王族の末席とはいえ、王子ジュリアスの婚約者になれたということ――という噂だった。
そう知ったとき、タウィーザははじめて、王国の人間に対してはっきりとした敵対心を覚えた。どんなに聖戦とうたわれ《タハシュの民》に鼓舞されても奮い立たなかった心が、煮えたぎっていた。
あの女は、ヴィヴィアンは自分のものだ。
あの女が身一つで王都へ突入してきたとき、その傍らにもいなかった男になど渡さない。
タウィーザは衝動のあまり飛び出したくなるのを耐え、機をうかがった。
王都の争乱が落ち着いてゆくと、王子とヴィヴィアンの婚約がなかったことにされた。
だが歓喜したのは一瞬で、ヴィヴィアンの姿そのものが表舞台から消えた。
遠い地で療養する、とだけ噂が流れてきたが、それがどこであるのか、果たして本当に療養なのかはわからなかった。
――救国の英雄と呼ぶべきはたらきをした女に対し、ろくに褒美を与えず療養させるなどというのはおかしい。
ヴィヴィアンが療養を必要とするほど重傷を負ったようには見えなかった。病というわけでもないだろう。
身を焼くような焦りで眠れぬ日々が続いた。
ヴィヴィアンの手がかりを求め、ジュリアスの周りを探りはじめる。すると、内情がわかってきた。
――タハシュの血を入れることでヴィヴィアンは勝利をもたらしたが、勝利後は邪神の血を入れた女としておそれられた。
敵の血にまみれて戦場で戦った姿が、あらゆる誇張をまじえて巷間に流布していた。
《血塗れの聖女》。それがヴィヴィアンに与えられた異名だった。
王太子になる男にはふさわしくないと判断され、婚約解消にいたったという。――その王太子の地位をもたらしたのは、勝利によって王族を守ったヴィヴィアンだというのは滑稽だった。
ジュリアスは名家の美女を娶った。
ヴィヴィアン自身もまた、それらのことを受け入れた――ゆえにすべては正しくおさまった、とされている。
(馬鹿な男だ)
タウィーザは声を出して嗤った。ジュリアスという男は何もわかっていない。ヴィヴィアンという女の価値をまるで知らないのだ。
だが、それで構わない。
あの女は自分ものなのだ。その価値を知るのは自分だけでいい。
やがて、療養の実体もうっすらと聞こえてきた。
――聖女は血に飢えている。
邪神の悪しき力に蝕まれ、血を求めて夜な夜な獣のようにうめく、と嘘か本当かわからぬ話があった。
しかし、タウィーザには正確にそれが理解できた。
――血に飢えているというのは本当だろう。
神(タハシュ)の血がそうさせるのだ。身体能力を大幅に向上させるかわりに、人の血を糧としなければその体を苛む。糧をとらなければ激しい飢えに悩まされることになる。
ヴィヴィアンは、おそらく人の血を拒んでいるのだ。タハシュの力がもたらす激しい飢えと苦痛に耐えている。
不思議と、タウィーザにはそれが理解でき、また一層焦がれる思いが募った。
(馬鹿な女だ)
愚かな王太子たちになど反発して自由になればいい。その軛を解き放てばいい。それだけの力があるというのに。
だが――戦場でのあの姿と、愚かな味方のために己を抑える不均衡な女に、耐えがたいほど焦がれるのも事実だった。
かつて感じたことのない欲望が募り、一刻も早くヴィヴィアンを手に入れなければ気が狂う。
早く。一刻も早く。
些細なことから《タハシュの民》の残党だということが露見し、捕まったのはその直後だった。五年前の叛乱を引き起こした蛮族の生き残りという理由で、タウィーザは王子ジュリアスの前に引き立てられた。思ってもみない面会だった。
(……こんな男か)
この国の王子。いや、いまは王太子か。そしてタウィーザが執着する女の、婚約者だった男。
間近で見て、ジュリアスが自分より男として優れているとはまったく思わなかった。
それどころか、こうして間近にすると、見目には恵まれているが、性根はさほどではないとわかる。己も覚悟もない男の目だった。
《タハシュの民》の残党がまだ他に潜んでいるのか、また叛乱でも企んでいるのか、と尋問された。それはない、自分は仲間とはぐれた、と正直に答えた。
ジュリアスという男は再びの叛乱を警戒している。――なるほど、王位継承に関して内乱の気配があるという噂は本当であったらしい。
くっ、とタウィーザは思わず喉の奥で嗤った。
「何がおかしい」
ジュリアスが不快げな顔をし、タウィーザは側にいた監視役の男に殴られた。
「お前がどう弁明をしようと、かの蛮族の生き残りであるからには首を刎ねる。有益な情報を提供すれば命だけは助けてやらぬこともないが」
王太子は冷ややかに言った。
――仲間を裏切って情報を渡すなどしたところで、この男は決して助けないだろう。
タウィーザにはそれがわかった。
おそれなど微塵もなかった。
予定と異なるとはいえ、これは好機だった。
神が、自分にあの女を与えようとしている。
「有益な情報? そうだな、あんたの目の前には一人の奴隷がいる。叛乱分子の生き残りで、剣の試し切りに使おうが、使い捨ての手足にしようが問題ない男だ。その体は若く健康で、頑丈だ」
タウィーザは軽い口調で言う。
一体何を言い出すのか、とジュリアスが眉をひそめる。監視役が再び殴って黙らせようとしたが、ジュリアスが止めた。
「何が言いたい」
「こういうことさ。――俺はタハシュの力をおそれておらず、一向に使い捨てても構わない命で、あんたらが飼い殺しにする《血塗れの聖女》の贄とするにもっとも都合がいい」
王太子は目を見開いた。驚きのあと、その目に疑念がよぎる。
自分の言葉の意味が深く浸透してゆくのを、タウィーザは静かに待った。
王太子はいま、厄介な政敵を抱えている。王位継承権を主張する他の王子だ。一筋縄ではいかない。争いが大きくなればやがて武力が必要になる。
タウィーザはそこまで読んで、《血塗れの聖女》という便利な駒を思い出させてやることにした。
その駒の真価を発揮させるには、贄が必要だということも。
――その贄はちょうど、目の前にいるのだということも。
ふいに、タウィーザは大声で笑いたくなった。
両親の最期がどうだったかを思い出した。神への贄にされ、それを嫌悪していたのではなかったか。
その息子である自分もいままた贄になろうとしている。
ただし捧げるのは神に対してではない。そして捧げるのではない。
「何が目的だ、奴隷」
「タハシュは尊き神。その血は聖にして誉れ。タハシュの血に選ばれた者に仕えたい。それが民としてのつとめ」
心には思ってもないもっともらしい言い訳を、流暢に並べ立てる。
ジュリアスは嗤った。
「なるほど。ならば望み通りにしてやろう――」
タウィーザもまた、胸の中で嗤った。愚かな男に、礼さえ言った。
(――ようやく会える)
王太子は気づかないだろう。たったいま、自分がヴィヴィアンという女を売り渡したことに。
タウィーザは自分が贄だなどとは思っていない。
――自分の血で、あの女を侵す。
二度と離れられないよう、味を覚えさせる。そうして自分のものに染めあげるのだ。
船に揺られ海上を進んでいく。
波の音は、耳の奥に聞こえる血流の音に似ている。ざあざあと、止まることなく流れて行く。
波は、彼を運命の女に向かって船を運んでいく。
やがて、孤独で小さな島が見える。タウィーザは不敵に笑う。
(ヴィヴィアン。あんたは、俺のものだ)