「俺を多少でも人間扱いする気があるなら、タウィーザと呼んでくれ」
気さくというには少し棘の強すぎる口調で、青年――タウィーザは言った。
強がっているようにも見えない。
テーブルを挟んで、向かい合うようにしてタウィーザとヴィヴィアンは座っている。
タウィーザは怯えたり憤ったりといった様子もなく、友人の家に来たとでもいわんばかりの気楽さで、椅子の背もたれに背を預けている。手首にはいまだ鎖が繋がったままであるにもかかわらず。
――贄。
タウィーザは自らをそう称し、またタウィーザを送り届けた輸送担当者たちもそう言った。
「……馬鹿げているわ。信じられない」
ヴィヴィアンは顔を歪め、吐き捨てた。
とっさに強く拒絶したものの、なかば強引にタウィーザを押しつけられ、輸送者たちは逃げるように行ってしまった。
タウィーザ自身も、贄と言いながら、むしろヴィヴィアンの反応を眺めて面白がるような余裕さえ見せた。
ヴィヴィアンは贄などというものを受け取る気など髪の毛先ほどもなかった。だが身一つで置き去りにされた青年を浜辺に放置しておくわけにもいかず、やむなくこの館へ連れ帰ってきたのだった。
――贄を受け取ったことと同義になるとしても。
怯え半分、興味半分といった様子のアンナには、席を外しておくように言ってある。
苦々しい顔のヴィヴィアンとは対照的に、タウィーザは珍しげに室内を見渡していた。
「へえ。喪に服す未亡人みたいな環境か。てっきり、暗い洞窟みたいなところに住んでいるかと思ったのに」
揶揄の滲む声色。
そんな感情を向けられるのは久しぶりであったためか、ヴィヴィアンの神経はざらりと逆撫でされた。
「……実際はご覧の通りよ。あなたは奴隷として私のところに寄越されてきたのでしょうけど、要らないわ。なんとか本土に連絡を取って帰ってもらうから、それまでここで待っていて」
「ずいぶん余裕だな。あんたはだいぶ腹を空かせてるって聞いて、俺は慈悲の心を奮い立たせてここへやってきたっていうのに」
タウィーザは笑いまじりに言う。露骨にあてこするような物言いに、ヴィヴィアンは一瞬黙った。
――整った容貌で少し惑わされたが、こうして間近に見て話してみると、タウィーザは若い。
おそらく二十歳か、少し越したというぐらいだろう。
端整な顔立ちは貴公子的といっていいほどなのに、精悍な体がそれを裏切っている。
既に戦士の体だった。それもおそらくは実戦を経験した。
粗末な衣だからこそ、ヴィヴィアンの目にすらも、荒っぽい力が青年に漲っているのがわかる。
自分よりは年下――とヴィヴィアンには見えた。この力の漲りようからしてもただの青年とは思えない。怖い物知らずということか。
だからこんな挑発的な、見栄を張ったような物言いをするのだろう。
「……怯えたり警戒しなくてもいいわ。私は人の血は口にしない」
ヴィヴィアンは諭すように、口調を和らげて言った。
だが、タウィーザは目を丸くした。長い睫毛を一度瞬かせると、ふっと唇を歪める。
「怯える? まさか。むしろ少し落胆すらしてるんだ」
落胆、という言葉がまたヴィヴィアンを引っかく。眉をひそめると、タウィーザは気にした様子もなく続けた。
「《血塗れの聖女》なんて異名を奉じられるほど派手に敵を殺して回った救国の英雄が、いまや見る影もないなんてな」
唐突な言葉。
封じた過去が突然掘り返され、ヴィヴィアンの胸を穿った。
とたん、瞼の裏に、封じていた光景が千々に浮かんでは消えた。
――力。力が欲しい。
――やめろ、ヴィヴィ!
――この戦いを終わらせるには、こうするしかないの。
王家の管理下にある暗く深い地下廟、そこに横たわる古く不吉な柩。
その中におさめられた干からびた遺骸。気の遠くなるほど遥か昔のその遺骸は、けれど赤い血を流しつづけている。
その血は、人であることと引き換えに強大な力を与える。
柩の側で跪く。柩の縁に両手をかけ、上体を押し出して、骸から滲む赤いそれに顔を、唇を近づけ――。
ヴィヴィアンは息を止めた。
とっさにタウィーザから目を背けていた。膝上で両手を握る。その手がかすかに震え出した。全身から血の気がひいてゆく。
椅子が軋む音がして、顔を上げる。タウィーザがこちらに身を乗り出し、青白い光を宿した目がヴィヴィアンを凝視していた。
「――だがこうして間近に見ると、たいそうな異名に負けてるな。禁忌の力っていうのは、案外簡単に制御できるもんなのか?」
冷笑まじりの言葉が、ヴィヴィアンの横顔を無造作にはたいた。
凍えた頭にかっと血がのぼり、軽率な青年を睨む。
黒い怒りが胸に灯る。
「……口を慎みなさい」
ヴィヴィアンは抑えた声で言った。タウィーザは肩をすくめるだけだった。
「勘違いするなよ、あんたを見くびってるわけじゃない。だが禁忌だなんてごたいそうなものに手を出したわりに、いまのあんたの隠居っぷりはどうだ。ずいぶん落ち着いたもんじゃないか。そんなに弊害がなさそうなら、他の奴らがやればよかっただろうに」
やめて、とヴィヴィアンはうなるように言った。
息苦しさに胸を押さえる。
――何がわかる。
知り合ったばかりの、ただの他人でしかない青年に何がわかるのか。
この力が――この苦しみが、簡単に制御できるなどと。弊害がないなどと。
だが青年はやめなかった。さらに声を軽くして、他人の珍奇な所有物が羨ましいとでもいうような口調で続けた。
「ずいぶん便利な力なんだろ? でもあんたも哀れだな、英雄がいまとなっちゃこんなところに閉じ込められて落ちぶれて。なあ、教えてくれよ。その便利な力はもう衰え――」
ざあっとヴィヴィアンの視界が激しい怒りで眩んだ。
次の瞬間、激しい衝突音と破砕音が青年の言葉を覆った。
タウィーザは目を瞠った。
ヴィヴィアンは立ち上がったまま、怒りに青ざめた顔で青年を見下ろす。右手をゆっくりと下ろした。
二人の間にあったテーブルは消えていた。それであったものはいま、ひっくり返って壁側に転がっている。
――ヴィヴィアンが立ち上がると同時に片手で薙ぎ払い、壁に激突して大きな音を立てたのだった。
テーブルの上にあったカップも皿も砕け散っている。
「……前言を、少し訂正するわ。私は人の血を吸わない、だから怯えなくてもいい。けれど」
ヴィヴィアンは左手で軽く右手首に触れた。そうすることで、青年の目にこの手が見えるように。
頑丈なつくりのテーブルを木の実でも片手で殴り飛ばし、それでいて傷一つつかない。
「……力はあるわ。飢えと同様に。消えるわけがない。あなたは自分のために、最低限の恐怖は私に対して持っておくべきよ」
ことさら無感情に、ヴィヴィアンは言った。
タウィーザの表情は読めない。先ほどまでの冷笑も消えている代わりに、明確な恐怖や怯えというものも見えなかった。
青年の左目を覆う茨の刺青が、ヴィヴィアンをふいに鋭く刺す。
タウィーザはふっと唇を歪めた。
「なんだ。魂まで干からびたのかと思ったら、《血塗れの聖女》はまだいるじゃないか。ははっ! そうできゃ面白くない」
尖った声で青年は笑う。
鋭い響きに、ヴィヴィアンは口を閉ざした。ただの怖い物知らずとは思えぬ物言いに、ふとある推測が胸をよぎった。
――若さに見合わぬ精悍な、戦士といって差し支えない体。騎士たちとも異なり、どこか荒っぽさがある。だが野卑さとも違う。
王都の洗練とも田舎の素朴さも感じない。もっと違う、原始的だが力強い気配。
もしかしたら、この青年は。
「……あなたは、《タハシュの民》……なの」
喉に、鉛の塊をつめられたかのようだった。
タウィーザは冷ややかに笑ったままだ。
「そうだよ、聖女様。あんたらが、あんたが皆殺しにした部族の生き残りだ」