男の冷ややかな、しかしどこか粘ついた視線がグリシーヌを睨め回す。
グリシーヌが凍りついて反論しないのを確かめてか、なぶるような笑みを浮かべた。
「妹同様……あなたも、噂通りの方のようですね」
グリシーヌは背を引きつらせた。とっさに顔を伏せる。いきなり横頬をはたかれたように感じた。
――噂。“悪魔のような”姉。傲慢でつまらぬ、嫉妬深い女。
これほどあからさまにあてこすられたことはなかった。
男は気を良くしたように、やけに声を明るくした。
「まあ、私はそういうのは気にしません。昔から、大らかな男だとよく言われましてね。ですから私なら、あなたと合うと思いますよ」
鷹揚さを誇示しようとするかのような物言いだった。だがそれはあまりにもつくりものめいていた。
グリシーヌは唇を引き結ぶ。きりきりと胃が引き絞られるような不快感を覚えた。
このランディという男は、一方的に侮辱的な物言いをしたかと思えば、よりによって自分に求愛めいたことをしているらしかった。
――見下されているのだ。
この程度の女なら自分でも、という思いがいやになるほど透けて見える
見下されることにも侮られることにも慣れている。だが、これほど露骨に出てくる男はいなかった。
(……早く……)
いなくなって、とつぶやく。飽きて、呆れて立ち去ってくれたらいい。
うつむいて口を閉ざしていれば、きっとつまらない女だと判断して去って行くだろう。これまでのように。
自分一人が悪評を被るだけなら、ただ黙ってやりすごすだけが一番いい。反論する強さも立ち向かう勇気も、自分のためには発揮できない。
だから、グリシーヌはいつものように唇を引き結ぶ。嵐が過ぎ去るのを待つ。
男は苛立ちと侮りの響きを更に強めた。
「聞こえていないのですか。それともそこまで鈍くていらっしゃるのか。私は、あなたに……」
「ランディ殿。私の、大切な友人たるグリシーヌ嬢に何のお話を?」
涼やかな声が、いきなりランディの言葉をさえぎった。
礼儀正しく品のある、だが相手の言葉を切り捨てるような冷たさのある声だった。
グリシーヌははっと顔を上げる。
ロジエを伴いながら、オリヴァーが近づいてくるところだった。
眼鏡越しの瞳と一瞬合い、グリシーヌはわけもなく鼓動を乱した。視線がさまよう。
「こ、これはオリヴァー卿。ロジエ嬢も……いえ、グリシーヌ嬢にもぜひご挨拶をと……」
「そうですか。では私たちもぜひご挨拶をしなければ」
オリヴァーは穏やかに言う。
だがふいに、グリシーヌはとんと軽く胸を突かれたように感じた。――私たち。
オリヴァーとロジエ。親密で、すでに自分には入り込めない特別な関係があるかのように。
ロジエもそれに応じるように、薔薇の天使の異名にふさわしい淑やかさでランディに話しかけた。
グリシーヌは突然、二人の姿がひどく遠く見えた。
美しい妹と、美しいその婚約者。
二人に気圧されたように狼狽えている男は、先ほどまで、自分に対しては見下し威圧的に迫ることさえしていた。
――何も言えなかった自分。あのオリヴァーが、友人などとまで言って庇ってくれた。
唐突に――自分の何もかもが恥ずかしく、惨めになった。
なぜ自分はこんなところにいるのだろう。
「……で、ではロジエ嬢、オリヴァー卿、ご挨拶できて光栄でした。ぜひ今後ともお見知りおきを……。グリシーヌ嬢も、ぜひまたゆっくりとお話をさせてください」
ランディは落ち着きなくそう言って、オリヴァーとロジエには卑屈とさえ言えるほどの礼をして引き下がっていく。
ロジエは去って行くその後ろ姿を見やり、そうとわからぬほどごくわずかに眉をひそめた。
「どうなさいました、グリシーヌ嬢」
よく通る声が、グリシーヌの意識を引きつけた。無意識に顔を向けて、透き通った眼鏡越しにオリーヴ色の瞳と合う。
先ほどの男とはまったく違う目。ときにからかいや皮肉をまじえても、見下すことや侮ることはなかった目。
なぜかその眼差しが胸を衝いて、グリシーヌはとっさに顔を背けた。
心音がうるさくなる。だがそれはランディのときに覚えたような羞恥や屈辱といったものとはまるで違っていた。
「……なんでもありません」
「お姉様? あの男に何か言われたのですか?」
今度はロジエが気遣わしげな声をかけてくる。
妹の優しさは、ささくれた心にひどく染みた。そのせいで弱音を吐きそうになった。
――この場からすぐに逃げ出したいと思った。
しかしそれでは何かあったと露骨に主張するようなものだ。
そもそもここには、ロジエの保護者としてきたのだ。あまり役に立っていないとしても、こんなことで一人逃げ帰るわけにはいかない。
これではロジエを守るどころか、ロジエとオリヴァーに守られている始末だ。
グリシーヌは自分を奮い立たせ、顔をあげて無理矢理笑った。
「なんでもないわ。いつもの癖で……ほら、あまりうまく話せなかったの」
「そうなの……?」
ロジエが不安げな顔をする。大丈夫よ、とグリシーヌは更に自分を鼓舞して明るく言った。
その隣でオリヴァーが物言いたげな眼差しを向けていたことには、気づかぬふりをした。
――たぶん、自分にはあれほど言い返していたのにとでも思っているのだろう。
グリシーヌは強ばる頬を必死に持ち上げながら、思う。
あのランディとかいう男に比べれば、オリヴァーははるかにましだ。比べるのも無礼なほどだ。
だから――。
だから、もういいのかもしれない。
ずきずきと痛む心の向こうで、静かにそんな声がした。