小さな池の上を、白鳥が優雅に進んでいく。昼過ぎの光がその白さをひときわ際立たせ、輝かせている。
グリシーヌは長椅子に腰掛け、日傘もさしたままぼんやりとそれを見つめた。
広い公園には人もまばらで、静かに考え事をするにはちょうどいい。
(いまごろ……)
ロジエとオリヴァーは、どうしているだろうか。ついそんなことを思ってしまい、頭を振った。二人は茶器の展示会に出かけたのだ。
いまごろ、見事な茶器の数々を前にのんびりと時間を過ごしていることだろう。
あの茶会以来、グリシーヌはオリヴァーに手紙を出し、同伴保護者役を母に譲った。
あれ以上ついて回ることに意味が見出せず、また妹に迷惑がかかるかもしれないと思ったのだ。
素晴らしい婚約を破談にしようとしているお邪魔虫、“悪魔のような”姉――。
あるいは臆病な自分が、怖じ気づいてしまったからかもしれない。
これ以上周りから何か言われるのがおそろしかっただけなのかもしれない。
何より自分が、本当に悪評通りになってしまう気がして怖かった。
ぎゅっと傘の柄を握りながら、溜息をつく。
(ロジーが幸せになってくれるなら……なんでもいいわ)
そう、自分に言い聞かせる。妹を大切にしてくれるなら、妹が幸せになってくれるならそれでいい。自分の出番はない。
静謐な白鳥の姿を漫然と眺めていると、砂利が踏まれる音がした。
誰かがここを通り過ぎようとしているらしい。グリシーヌは傘に顔を隠すようにして、通行人が過ぎ去るのを待った。
だが足音は近づいてきたかと思うと、左隣に腰掛けた。
一人で座っていたいのに、とグリシーヌが思わず不満を抱くと、左側から声がした。
「こんなところで一人時間を過ごすなど、あなたは修道女ですか」
よく通り、あくまで気品を失わずに人をからかうような響き。
グリシーヌは驚いて振り向く。
傘を傾けて顔を覗かせると、見覚えのある姿が見えた。
“夢のような”貴公子。
――本当に夢なのではないかと一瞬錯覚する。
「お、オリヴァー卿……え、あ、あの……ろ、ロジーは? ロジーと展示会に行ったのでは……」
「行きました。それで早めに切り上げたんです」
「え!? な、なぜ……あの、ではロジーはもう家に帰ったのですか? もしかして一人になどは……」
グリシーヌが焦ると、オリヴァーは控えめに顔をしかめた。
「そんなわけないでしょう。ちゃんとご自宅にお送りしました」
「そう、ですか……」
グリシーヌはほっと息を吐く。
だがそれを見て、オリヴァーは更に眉をひそめた。
「まったく、ロジーロジーロジーと、あなたは本当に……」
声に不機嫌が滲む。
グリシーヌは忙しなく瞬く。
オリヴァーは怒っているらしいと感じて、少し焦った。展示会から早めに帰ってきたことといい、何かあったのだろうか。
「その、なぜ早めに切り上げられたのですか? もしや何か……」
「ええ、ありました。あなたのせいです」
あっさりと歯切れ良く言われ、グリシーヌは大いに虚を衝かれた。
「わ、私の……っ!?」
「そうです。いったい何だというのですか。これまで散々ロジエ嬢に同行してきたというのに、突然来なくなるとは。その上――」
オリヴァーは右手を揺らす。その指に挟まれた封筒が、白旗のようにひらひらとしなる。グリシーヌにとって見覚えのあるものだ。
「なんですかこの手紙は。いきなり送りつけてきた上、妹を大切にしてほしいだの、あなたの誠実さを信じるだの、これまでの非礼を詫びるだのなんだの……あまりに一方的すぎやしませんか」
呆れたような声。そのあまりか口調まで砕けている。
グリシーヌはかあっと頬が熱くなった。ぎゅっと傘の柄を握りしめ、うつむく。
「不作法をお詫びいたします。ですが、そこに書いたことは、本心で……」
「ですから、それが気にくわないと言っているのですよ」
あきらかに不機嫌な声と言葉が、グリシーヌの胸を刺した。
オリヴァーにしては珍しい、鮮明な不快感の表明だった。
グリシーヌは何か弁明めいたことを言おうとして、だが言葉にならなかった。傘の下に、顔を隠す。
オリヴァーは大きく溜息をついた。
「あなたの頭の中には妹のことしかないのですか。悪魔どころか、あなたはロジエ嬢の守護天使のようだ。ロジーロジーロジーと……」
グリシーヌは答えられない。そしてかすかに、困惑した。
オリヴァーは呆れて不快に思っているようだが、それはあの手紙が大きな原因なのだろうか。
だがあれは謝罪と、今後の二人の幸せを願う内容でしかなかったはずで……。
一瞬、奇妙な沈黙が生じた。
それから。
「この傘は邪魔です」
いきなり大きな手が傘の下に潜り込み、グリシーヌから傘を奪い取った。
グリシーヌは驚きのあまり抵抗できず、奪われた傘は裏返った花のようにひらりと地面に落とされた。
眼鏡の奥、翳りを帯びたオリーヴ色の瞳がグリシーヌを見つめていた。
「藤色の眸の守護天使殿。どうやったらあなたを一人の女性として手に入れることができるのでしょうか」
静かな声だった。
先ほどまでの呆れも怒りも不機嫌もない。戯れの様子さえない。
だから、グリシーヌはしばらく言葉の意味がわからなかった。
かろうじて踏み止まった理性がようやく言葉を咀嚼して、考えが鈍くまわりはじめる。
これはまた、オリヴァー流の戯れ、ロジエという婚約者がありながらまた口説き文句のようなことを口にして――いるのだろうか。
からかうような表情ではないが、それでも――。
「こ、この、期に及んで、そのような……」
「そのような? 何をです。まさか、戯れで言っているとでもお思いですか」
目元を歪められ、今度はいかにも心外だというような意思表示をされてグリシーヌは言葉を失った。
こんな態度は、こんな表情は――完璧な貴公子ではない。
なぜ。どうして彼はこんな態度をとる。こんな言葉を口にする。
混乱する。それでもグリシーヌの頭にすぐに浮かんだのは妹のことだった。
何はどうあれ、この貴公子の中の貴公子と呼ばれる人は、妹の婚約者なのだ。だから……。
「ろ、ロジーは……」
「ああほら、またそれです。ロジーロジーロジー……」
オリヴァーは顔をしかめた。
「まったく、あの姉離れできぬ薔薇殿を承諾させるにも一苦労であったのに、当のあなた本人まであの薔薇から離れられないと来ている……」
低く、そう独白する。
グリシーヌはぱちぱちと瞬きをする。いったい何を言っているのだろう。
困惑しているうちに、オリヴァーは再びグリシーヌを真っ直ぐに見つめた。
「ロジエ嬢との婚約は解消しました。むろん、互いに話し合い、納得した上で」
「な……っ!?」
「あなたのせいです。まったく腹立たしいこと……と言わねばならないのでしょうね」
“夢のような”貴公子は形の良い眉をひそめる。
グリシーヌは言葉を失った。すうっと血の気がひいていく。
――まさか、自分のせいで。自分が、二人の邪魔をしたせいで。完璧な婚約を壊してしまったというのだろうか。
オリヴァーの目は、池に浮かぶ白鳥たちを見ている。端正な横顔をグリシーヌにさらして、貴公子は言った。
「“悪魔のような姉”は私を惑わし、あげく心を奪いました。……それもおそらくは、まったく無意識に」
ですから腹立たしいでしょう――と、静かな声が続ける。
グリシーヌはその藤色の眸を大きく見開いて貴公子を見た。