舞台を半円状に囲む巨大なホールで、その歌劇は演じられた。
内容は悲劇的な恋愛だった。――いかにも、年頃のご令嬢が好きそうな内容だ。
グリシーヌは特等席に座り、少し結末が気になって見入ってしまった。しかし気づけば隣のロジエからは、ごくかすかに冷めた気配を感じた。
ずっと一緒に生まれ育ってきたグリシーヌにしかわからぬ、微妙な変化だった。
――ロジエはこういったいかにもな悲劇的恋愛ものが苦手なのだ。
だがせっかくの特等席をとってもらったのだしと、我慢してみているに違いない。むしろ、ロジエの隣のオリヴァーのほうがまともに見ているのではないかと思うほどだった。
やがて幕間になると、ロジエが手洗いのため一度席を外した。
一人分の席を置いて、オリヴァーとグリシーヌが残される。
「……この先ずっと、あなた自らがお目付役をされるおつもりで?」
ふいに、ひそめた声でそうささやかれた。
グリシーヌははっとして振り向く。
オリヴァーは顔だけをわずかにこちらに向けていた。劇場内の薄闇で、細い眼鏡がかすかな照明に光っている。
「……ええ」
グリシーヌは身構えながらも、周囲をはばかった声で言った。
上席であるから、他の客とは距離がある。だが同じく上席の貴人たちから好奇の眼差しがちらちらと向けられているのは感じられた。
――何せ“夢のような貴公子”と“薔薇色の天使”が連れだって観劇しているのだ。
オリヴァーが、明らかに邪魔者である自分の同行を許したのは意外だった。
もっとも、外面のよさを維持するための演技だったのかもしれない。
「……妹想いであらせられる」
からかうようにオリヴァーが言った。
邪魔者に対していまこそ棘のある言葉を投げかけてくるものと思っていたグリシーヌは、少し意外に思った。
「心配せずにすむ相手でしたら、こんな無粋な真似はしないのですが」
グリシーヌはぽつりとそんな返しをしていた。
貴公子はかすかに片眉を上げてみせると、意味ありげな微笑を浮かべた。
「保護者をつとめられるにしろ……、もう少し着飾られてはいかがです。それではまるで家庭教師だ」
嘲るでも、猫なで声でもなく。あまりにも自然に言われたから、グリシーヌは一瞬意味をつかみそこねた。
だが理解したとたん、かあっと頬に熱がのぼった。
目を背け、膝上で手を握った。
「か……関係ないことです。私はロジエの保護者で、引き立て役です。弁えて……いるのです」
そう答えた声が、情けないほど脆く響いた。
――これではまるで、オリヴァーの言葉を間に受けているようではないか。
この状況で着飾る必要性がないし、第一そんなことをしても無駄だと、とうにわかっていたはずだったのに。
どんなに背伸びしても、努力しても、ロジエのようにはなれないのだ。
「……もったいないことです。自ら埋没させてしまうとは」
低くささやくような声が、言った。
グリシーヌは膝上で握った手に力をこめた。これまでの経験と感覚が、オリヴァーの言葉をとっさに揶揄と解釈した。
しかし続く言葉が、それを一変させた。
「あなたの瞳と髪は忘れられぬ色をしている――特にその、妖艶な藤色の目だ」
決して大きな声ではない。
なのにその言葉は一瞬でグリシーヌの注意を奪い、はっと振り向かせた。
耳を疑う。
眼鏡の向こうの、深いオリーヴ色をした双眸に照明の小さな光が映り込んでいる。
「光の加減で色合いが妖しく変化する……寝台の中ではどんな色になるのか見てみたいものです」
さらりとオリヴァーは言った。
これまでと変わらぬ、少し冷たさを含んだ、貴族的な端整さを持つ声で。
グリシーヌは思わず藤色と称された目を見開いた。
遅れて、婉曲な表現の意味を察し――かあっと頬が熱くなった。
同時に怒りが肩を震わせた。
「な……っ、あなた……っ!!」
あまりの不意打ちに言葉が出てこなかった。
――この場所で、この状況で、なんということを言うのだろう。
仮にも婚約者と来た歌劇の席で、相手が席を外した間に監視役にこのような悪ふざけを仕掛けるなど。
なのに、当のオリヴァー本人は涼しげな顔をしている。否、微笑というには少し挑発的すぎる笑みを浮かべている。
「ふ……あなたは純真ですね。“悪魔のような”というにはあまりにも純粋すぎる」
控えめだが明らかにからかいを帯びた口調。
グリシーヌは一瞬虚を衝かれた。次の瞬間、やけに狼狽した。
ますます赤くなり、そんなふうに見出されたことに対して憤慨した。とにかくからかわれていることだけは間違いなかった。
(な、なんて不誠実な……っ!!)
やはり、こんな戯れをしかける男にロジエを任せることなどできない。
グリシーヌとは対照に、オリヴァーは憎らしいほど余裕たっぷりだった。
他の者から見れば、あたりさわりのない雑談をしているようにしか見えないだろう。むしろ顔を赤くして眉をつりあげているグリシーヌのほうがおかしく映るに違いなかった。
「……失礼しました。あら、どうしましたの姉様?」
憤懣やるかたなく思っていたところにロジエが帰ってきて、グリシーヌは慌ててごまかし笑いを浮かべた。
不思議そうな顔をする妹に、なんでもないのよ、と答え、オリヴァーを全力で意識から閉め出す。
オリヴァーのほうも、先ほどまでの態度は幻だったのかと思うほどに、礼儀正しく温厚な笑みをロジエに向け、優しげな言葉をかけた。――そこにからかいや皮肉は一欠片もない。
(なんという豹変ぶり……!)
自分に対する態度とのあまりの違いにグリシーヌは苦々しさを覚える。だがその奥にかすかな、小さな焦げ付きのような気持ちがあることに気づかなかった。