しかしグリシーヌの決意の強さと、実際にとれる手段とには悲しいほど差があった。
まず両親にもう一度相談してみるも、今度は怒られてしまった。姉である自分が、そのようにはしたないことを言って騒ぎ立てるのではない、というのだ。
――オリヴァーはよほど外面がよく、両親にうまく取り入っているらしい。
否、もとから社交界での評判はやたらと良好な男なのだ。
そして当然、ロジエ本人にはこのことは言えない。ロジエ本人はオリヴァーに対して恋愛感情はないというが、好感は抱いているのだ。他の男性よりも期待しているところはあるだろう。
だから――オリヴァーがどうやらかなり遊び人で、かなり不誠実な男であるなどとは口が裂けても言えない。
――たとえ話し合いの相手が自分であったからあの男はあんな態度をとったのだと思うにしても、ああも露骨な態度に出られては、どうあっても好意的に解釈することなど不可能だった。
貴族は政略結婚が多いが、多いというだけですべてではない。
現に、グリシーヌの両親は政略結婚でありながらも互いに誠実に接し続けたことで真に仲の良い夫婦となり、現在にまでそれは続いている。
希な例ではあっても、二人ともやや人が好すぎるところはあるものの、温厚で優しく思いやりに溢れ、グリシーヌはそういう夫婦が基本なのだと思って生きてきた。
だから結婚には夢を持っているし、夢を持っていないロジエですら、結婚自体はまあしてもいいかなと思えているぐらいである。
ゆえに――グリシーヌにとってオリヴァーのような不誠実な男は許せないのだ。
妹に関わらなければ、眉をひそめるだけで済んだだろう。だがよりによって妹の婚約者である。いずれ、妹と結婚するという男なのだ。
ロジエならば、それこそ相手には困らない。オリヴァーでなくとも、熱烈にロジエを愛し、大切にし、理解してくれる男性がいくらでもいるはずなのだ。
だから数日後、ロジエ宛てにオリヴァー卿から手紙が届いたとき、グリシーヌは大いに驚き、内心で憤った。
「オリヴァー卿からのお手紙には、何が書いてあったの?」
そろそろとうかがいながら聞くと、カップを傾けていた妹が動きを止めた。
ちょっと驚いたように榛色の瞳を瞬かせ、姉を見つめる。
「週末に……歌劇に行かないかってお誘いだったわ」
少しだけ気まずそうな口調なのは、照れくさいからだろう。
――露骨な、デートの誘いだ。
数日前の自分との会話、もとい口論などまるで気にしていないらしい男に、グリシーヌは心底腹をたてた。いったいどんな顔をして、妹を誘っているのだろう。
「……行くの?」
断ってほしいと祈りながら、聞く。
ロジエはカップの中の紅茶に目を落とした。
「……予定は、あいているし……。前回は、友達との予定を優先してお断りしたから……」
ぎこちない口調。そのどことなく心細げな様子を見たとき、グリシーヌは声をあげていた。
「わ……、私も一緒に、行くわ!!」
とたん、榛色の目が丸くなった。グリシーヌは慌てて早口にまくしたてる。
「そ、その、いくら婚約者とはいえ保護者が必要でしょう、だから私がついていこうと思って……!」
とっさにそんな言い訳をする。焦ったままに転がり出た言葉にしては、それらしく聞こえた。
「姉様が? でも……」
ロジエはなんとも歯切れの悪い言い方をした。
グリシーヌはすぐにその理由に思い当たる。
――婚約者との逢瀬を邪魔されそうだから、などという理由ではない。決して。
こういった場合、保護者、監視役は母か、既婚の姉や従姉妹が普通なのだ。
未婚の、それも年の近い姉などがついていっては奇異の目で見られる。
それも既に悪評の立っている姉だ。おそらくグリシーヌはまた悪評を増やすことだろう。
(か、構いはしないわ!)
自分のことなど、この際どうでもいい。妹のためだ、という興奮に上書きされた。
当のロジエにも少し迷惑をかけてしまうが、ロジエを守るためだから仕方がない。
グリシーヌのその態度をどう見たのか、ロジエは少し意表を突かれたような顔をした。
だがそのあと、ふと安堵したような笑顔を見せた。
「姉様がついてきてくれるなら嬉しいわ。ああでも、私、姉様がいてくれたら気がゆるんでオリヴァー卿を疎かにしてしまうかもしれないわね」
ロジエが嬉しげに言う。妹の純粋な反応に、グリシーヌはきゅんとする。
小さい頃から、姉様姉様と後をついてくる子だったのだ。慕ってくれる気持ちはいまも変わらない。
――そのぶんだけ、ますます妹を守らねばという決意を固くした。
グリシーヌの、妹を愛する姉としての目標は――オリヴァー卿との婚約を破談にすることである。それも妹の名誉が傷つかぬ形での破談を目指さなければならない。
あるいは万一にでもオリヴァーが心根を入れ替えてくれたなら、ロジエに誠実で一途に接してくれるようになるならば、破談でなくとも構わない。
いずれにせよ、間違ってもオリヴァーがロジエに不適切な距離をとることがないよう、自分が見張らねばならなかった。
未婚の身で妹の監視役を買って出るという行動に、両親はたいそう驚き呆れたが、無理矢理止めるようなことはしなかった。
もとより姉妹の仲の良さは誰よりも知っているし、微笑ましく見守ってくれている。
そうして――約束の日はやってきた。
ロジエはその髪色に合わせた品がよく深みのある赤のドレスで、露わになった胸元や肩の白さがまぶしい。
ルビーの鏤められた首飾りも美しく、結い上げられた髪が一段と色気を醸し出す。
母親の見立てた衣装と小物は、あますことなくロジエの魅力を引き出していた。
実の妹とは思えぬ美しさにグリシーヌはうっとりしたが、反面、オリヴァーにこれを見せるのかと思うと少し腹立たしかった。
二人で玄関ホールで待っていると、オリヴァーの迎えが到着した。
扉の向こうから現れた正装の男を見て、グリシーヌはひそかに息を飲んだ。
すらりとした長身を包む、闇夜に近い濃紺色の燕尾服。
白のシャツは静謐と高潔を表し、腕のカフスが控えめな華を添えている。艶やかな髪の頭部から磨き抜かれた黒い靴の爪先までが、完璧な調和を表している。
夢のような貴公子と称されるはずだ――と、グリシーヌは一瞬感心してしまった。
だがすぐに、そんな自分を叱咤した。
オリヴァーの、眼鏡の奥の瞳は、夜の翳りを受けて不思議な色彩に変化している。
その目はロジエをすぐに認め、唇に控えめな、けれど賞賛の微笑を浮かべた。
「お迎えにあがりました、ロジエ嬢。今宵のあなたは……天から降りてきた女神のようだ。花の女王も所詮は地上の花。いまのあなたの前には薔薇すらかすむ」
「……過分なお言葉ですわ、オリヴァー様」
ロジエは控えめに微笑した。
まったく滑らかな――慣れているのだ――賞賛の言葉にグリシーヌは内心でのたうち回る思いだったが、それだけロジエが美しいのは事実だった。
そしてロジエの微笑がかすかに引きつるような動きを見せたのには、内心でこっそり笑った。
ロジエはこういった賞賛を飽きるほど浴びているが、もとから大仰な賞賛は苦手なのだ。いまも、オリヴァーが相手であっても辟易するのは変わらないらしい。
妹の変わらぬ正直な心を微笑ましく思っていると、ふいにオリヴァーの視線が動いた。
眼鏡越しの涼やかな目と合い、グリシーヌはどきりとした。
ふ、とオリヴァーの口元に微笑が浮かんだ。
とたん、グリシーヌは言いようのない羞恥で頬が熱くなった。いまさら、自分の恰好がどんなものであるかを突きつけられる気がした。
「参りましょう、ロジエ殿。……グリシーヌ嬢も一緒に」
オリヴァーはロジエに目を戻して言った。
ロジエがこちらを見ながらも、差し出されたオリヴァーの腕をおずおずと取るのを、グリシーヌは視界の端で捉えた。
端から見るだけには、まったく似合いの二人である。
――それについていこうとしている自分といえば……。
グリシーヌは気後れする自分を奮い立たせ、二人の後をのろのろと追った。
オリヴァーは、かすかな微笑の違いや目線だけで語ることのできる男であるらしい。実に貴族的な感情表現をする。
直接的な言葉など用いずとも、否、言葉がないからこそ逆に雄弁だった。
グリシーヌはオリヴァーのかすかな仕草だけで、その意図を悟った。
ロジエとは真逆な――華も何もない姉の姿を見て、きっと嘲笑ったのだろう。保護者役だからと、地味な紺色のドレスに身を包み、装飾品も控えめにした自分の姿を。
だが、オリヴァーにそうされたからといって自分が落胆や悲しみを覚えるのはおかしい。
今更だ。誰にそう思われようと、もう慣れたはずだったのだ。