翌日のことである。
グリシーヌが、妹の婚約者と予想外の鉢合わせをし、憤慨してその場を立ち去り――帰宅するなり両親に訴えた、その翌日だ。
当代きっての美男子、女性達の憧れ、“夢のような”貴公子ことオリヴァー卿は、突如としてグリシーヌのもとを訪れた。
――否。表向き、ロジエのために伯爵家を訪れ、だが実際は自分に口封じをするためにきたのだ、とグリシーヌは直感した。
昨日の今日であり、奇しくもロジエは今日も友人達と外に出かけている。
姉と違い、ロジエは年頃の淑女の友人が多いのだ。
薔薇色の天使の側にいたら幸運が訪れるとかそんな噂まであるらしい。そんなことを抜きにしても、ロジエは友達を大事にする子だ。
交友関係が広いことに、グリシーヌは嬉しく思っている。
だから。
そんな妹だから――この、いま目の前に座って、憎らしいほど端整で落ち着いた顔をする婚約者・オリヴァーが許せないのである。
テーブルの上には、ティーセットと焼き菓子が二人分。伯爵家の応接間である。
この状況からして、両親は髪の毛先ほどもオリヴァーを疑っていないらしかった。
――昨日、家に帰るなりグリシーヌは両親に直訴したのだ。
オリヴァーが、あきらかに適切でない親密さで美女と二人、宝飾店にやってきたことを。そもそも場所が場所である。
まるで恋人同士のように、オリヴァーは美女のために買いに来た様子であったこと――。
人の良い両親ははじめこそ目を丸くしてそれを聞いていたが、人が良すぎるがゆえに、思い違いでしょうという言葉で退けられてしまった。
その女性はオリヴァーの姉、妹、親類で他人ではなかったのでは――という楽観的な意見である。
両親はロジエとオリヴァーの縁談をたいそう喜び、もはや幸せな未来しか見えていないのである。
――先日の光景さえなければ、グリシーヌも同じ花畑にいられただろう。
全身から警戒を発するグリシーヌとは裏腹に、大陸一の美男とも賞賛されるオリヴァーは、透き通った眼鏡の奥でオリーヴ色の目を投げかけていた。
ふっとその唇が弛む。
「そう怖い顔をなさらないでください、グリシーヌ嬢」
「……もとからこの顔ですので」
グリシーヌは思わず言った。
――おそらく自分はいま、悪評通りの顔をしているのだろう。もとから無愛想できつく見られがちな顔だ。
そしていまは実際、怒っているし不快感をも覚えているのである。
「失礼。まるで怒れる女神像のようです。私はその正義の前に裁きを待つ哀れな罪人……ということでしょうか」
「……私はおそれおおい存在ではありませんが、正義の裁きを待たねばならぬような行いがおありですの?」
オリヴァーの流暢な言葉につられるようにして、グリシーヌは思わず毒づいてしまった。
しかしいまは相手の不興を買うことも辞さない。
眼鏡の奥の目が、ちょっと驚いたように見開かれた。それから、ふいに猫を思わせるようなきらめきがその双眸によぎった。
「寡黙な方とうかがっていたが……なかなか鋭い舌をお持ちのようです」
少しの皮肉と、驚きがまじったような声だった。唇が貴族的な、愛想の良さと冷たさを同時に孕んだ微笑を浮かべている。
おそらく揶揄されているのだろう。
グリシーヌとて自分に少し驚いていた。ふだんはもっと受け答えが下手だ。――怒りが、自分をここまで鋭く、舌の回転を滑らかにするらしい。
「……回りくどいやりとりはやめましょう。昨日のあれはなんですの」
「なんですの、とは?」
オリヴァーは白々しく聞き返してくる。
グリシーヌは眉をつり上げた。
「宝飾店で腕を組んでいらした、あの美しいご婦人です。盗み聞きなどするつもりはございませんでしたが、会話が聞こえてしまいましたわ。あのお方に、装飾品を贈るつもりでいらしたのですね」
ええ、とオリヴァーは短く答えた。
多少の抵抗を予想していたグリシーヌはやや意表を突かれたが、落ち着けと自分に無理矢理言い聞かせた。
――年のつりあう男女。その男が女に安くはない装飾品を贈る意味など、ほとんど決まっている。
「……一応、うかがいますけれど。あの方は、オリヴァー卿の姉妹や親類ですの?」
「いいえ、血縁関係はありませんよ」
貴公子はさらりと言った。――認めるどころか、親戚の類ではないと断言する。
グリシーヌの頬は引きつった。
ならば――、そう問い質そうとしたところで、オリヴァーが唇を歪めた。ほんのわずかな動きだったが、それは挨拶代わりの微笑とは明らかに違う表情だった。
「恋人だった――そういう答えなら満足していただけますか」
回りくどいやりとりはやめるのでしょう、と男は続けた。
グリシーヌは絶句した。それから、かっと体温が上がるのを感じた。
礼儀作法も忘れ、がたっと音をたてて椅子から立ち上がる。
「あなた……!! ふ、不実な……っ!!」
「……不実? いまだ婚約は公になってはいませんし、結婚もしていない。それに遊びの範囲は弁えているつもりですよ。互いの家に迷惑をかけるようなことはしない。昨日のあれはちょっとした餞別です。ささやかな思い出のための、記念品をと」
オリヴァーは肩をすくめた。軽くいなすように。
「ちょっとした火遊びは、我々のような成人男子には必要なものです。いちいち騒ぎ立てるようなことじゃない。互いの家のために、むしろこれぐらいのことは無視すべきことかと思いますが」
それに、と言ってオリヴァーは軽く肘をついて口元を少し隠すような仕草をした。
だがその唇はかすかに笑っているように見えた。
「一時であっても構わない――そういう女性は多くてね。私が一時答えるだけで、彼女たちは幸せになれる。ならばそれに答えるのが紳士としての義務では? 私には、他の男性に比べ、多くの女性を幸せにできる能力があるようですから」
冷笑を含んだ、言葉だった。
グリシーヌは――あまりのことに硬直した。
誤解だとか、あれはそういう意味ではないとか、そういう言い逃れをしてくるはずだと予想していた。
だがこんな反応は予想もしていなかった。完全に理解の範疇をこえている。
――妹の、諦めたような声と、美しい顔に浮かぶ達観した表情が脳裏をよぎった。
『オリヴァー卿とは少し話して……そうね、うん。他の男よりましだと思ったの。意外に話がわかる人だったわ。だから、この人でいいかなって思ったの』
結婚したくないと言っていた妹が、ようやく見つけた相手。
割り切って、諦めて、それでも投げやりになるのではなく相手に理解を求めた上でよい関係を築こうとしていた――。
『相手にも自分にも不実な態度で接するようなことはしたくない……』
――周りの勝手な希望と評判を飲み込んで、それでも誠実に接しようとした妹。
それを。
それなのに、この男は。
かあっとグリシーヌの頭に血がのぼった。
強い怒りに駆られるまま、裏返るほど声を荒らげた。
「さ……最低ですわ!!」
グリシーヌの指弾と非常識な態度にも、オリヴァーはさほど驚いた様子も、たじろぐ様子さえも見せなかった。
そのまったく悪びれぬ態度が、グリシーヌの怒りを更に煽り――決意を確かなものにした。
ひとりの姉として、妹の理解者であり親友でもあるものとして、
「あなたなどに、私の妹はあげません!!」
そう宣言したとき――はじめて、オリヴァーが一瞬だけ目を丸くした。
「このたびの婚約は無効!! 破談です!!」
グリシーヌが立て続けにそう言うと、“夢のような”貴公子はすぐに冷笑的態度を取り戻した。その深みのある緑の目に、かすかに好奇の光がちらつく。
そして冷ややかな唇が告げた。
「どうぞ、ご随意に。あなたが何をどう思われようと仰られようと……それは、自由ですから」
――それはまるで、お前がどう思おうと何を言おうと何も変わらないと告げているようだった。
グリシーヌは驚き、そしてますます怒りをかきたてられた。
――言い訳をするどころか開き直るとは。まったく悪びれもしないとは。
この男こそ、悪魔ではないか。決して天使を渡してはならない。
ならば、その悪魔に抗しうるのは。
(私は悪魔のような姉……こんな男に、負けたりしないわ!)
妹を守るため、自分はいまこそ悪魔のような姉になるべきである――グリシーヌはそうかたく決意した。