ジュリアスはわずかに言い淀んだ。
「三人目の側室を迎えたの? 正妃との間に子供が産まれたのに?」
「……ヴィヴィアン、子をなすことは、王族の義務だ」
他意はないとでも言うように、ジュリアスは困惑気味に答える。
――違う。そうじゃない。
激しい言葉が、ヴィヴィアンの喉元までこみあげた。だが、声にはならなかった。
こんな反応をするなど、自分はまるで。
ヴィヴィアンは左手を右手で抱え込んだ。力をこめる。――これ以上、そのことについてもう考えたくない。
愛情など、もう残っていない。あるのは未練。ただそれだけだ。
自分がこんな状況だから――ジュリアスにも、少しでもその不遇を分かち合ってほしいなどと思っていた。それだけだ。
利用しようと思い立った。タウィーザの声が、頭の中に食い込んでくる。
ヴィヴィアンは呼吸を無理矢理整えた。
「……あなたのいう反逆者とは、かつての《タハシュの民》のような異能をっている人々……ではないのね?」
「そうだ。だが奴らは私兵を持ち、結託して大軍になる危険性がある。危険な存在だ」
ジュリアスは険しい顔で言った。
反逆者は王位を要求していると言った。もともと、ジュリアスも王太子ではなかった。それが五年前に《タハシュの民》に王都を急襲された際、当時の王太子が深傷を負い、間もなく息を引き取った。
ジュリアスの他にも王位継承権に近い王子はいたが、王がもっとも気に入っていたのはジュリアスなのもあって、王太子は半ば強引に彼に決められた。
だがそのことが禍根となり、他の王子が不満を募らせ、叛乱勢力に担ぎ出されて状況が悪化したということだった。
ヴィヴィアンにとっては、そういった世情もはじめて聞くことだった。
そして聞いたところで、心は動かなかった。
「……それでも、相手は同じ国の人間だわ。同じ力と同じ血肉を持った人間。懐柔のしようもある。私の力が必要とは思えない」
「ヴィヴィアン、考えてみてくれ。これは君にとって好機ともなりうる」
ジュリアスが身を乗り出し、口調に熱が滲んだ。
「得た力を、残り一生隠し続けて過ごすのか? 生涯、負の遺産として抱え、日陰の道を歩いてゆくつもりか? そうではなくて、君自身のために力を正しく使い、君のために利用するのはどうだ」
ヴィヴィアンは答えられなかった。きゅっと唇を噛む。
正しいからといって、たやすく使える力ではない。 利用などと万一にもありえなかった。
この力の正体とはつまり――。
「……これは、人には過ぎた力よ。だから周りから化け物と見られる。その過ぎた力を使って、私にまたたくさん殺せと、そういうの?」
ジュリアスが少し怯んだ。しかしすぐに前のめりになった。
「戦いの力だ、ヴィヴィアン。君のその力が、かつて王都を取り戻すために大いに役に立ってくれたのは事実だ。それに、なにもずっとその力をふるえと言っているわけじゃない。今回は、国全体に関わることだ。強力な、守護者が要る」
言い聞かせるような口調。
ジュリアスが、この力を肯定的にとらえ、ひいては自分を慰めようとしてくれているのだと感じた。実際、これまでその憐れみがあったからこそ、自分はここで息を潜めながらも生きていられているのだ。
だが、いま、何かが致命的に食い違っている。
五年前のジュリアスは、こんなことは言わなかった。こんな――邪神の力を使えなどとは。
だからヴィヴィアンはただ頭を振る。ジュリアスの言うことはあるいは正しいのかもしれない――それでも、悪夢に見るあの光景を思うと、踏み出せない。
灰色の瞳がわずかに惑った。
「もし……もしもだが、君がまだ私のことを想ってくれていて、側にいることを望むというなら……相応の待遇で迎えることもできる」
ヴィヴィアンは目を瞠った。そして耳を疑った。
言葉を失ったヴィヴィアンの代わりに、背後でタウィーザが嗤った。
「ははっ! これはいい、側室として迎えてやるから駒になれってか! 最初からそう言えばよかっただろう!」
「黙れ下郎!」
切りつけるようなタウィーザの物言いに、ジュリアスが怒りを露わにする。
二人のやりとりを、ヴィヴィアンは瞬く間に青ざめながら聞いた。
タウィーザの言葉には悪意があった。だが、それは事実でもあるように思われた。
――正義という虚しい大義名分。
――反逆者を倒すための力という言い分。
――側室で迎えるという条件。
すべて、自分をまた引っ張り出して武力として扱おうとする態度のあらわれではないのか。
五年前――王都を守る戦いのとき、ジュリアスは決してそんなふうに自分を扱わなかった。禁忌の力に手を出すのを止めようとさえしてくれていた。
それが、いまは。
「なあ、考えてみろよ聖女さま。どれだけ綺麗事を並べても、こいつはあんたが満月のたびに苦痛でのたうちまわるのを知って何もしなかった。なんで俺が贄として送り込まれてきたかって聞いたよな。いまさらになって贄を送り込んだのは、あんたの利用価値に気づいたからだ」
タウィーザの声が奇妙なほど優しく、諭すような響きを帯びる。
ジュリアスの怒号。惑わされるな、とタウィーザの言葉をかき消すように言葉が連ねられる。
(ああ……)
ヴィヴィアンの中で、乾いた理解があった。
――叛乱とやらが起こらなければ、たぶん、ジュリアスはここにこうやって来ることはなかったのだ。
何もなければ、これまでと同じ。
停滞して閉ざされた世界がひたすら続くだけ。
それが答えなのだ。
どっと胸のうちに噴き出す黒い感情を、ヴィヴィアンは抑えた。
目を伏せると、瞳の奥が痛んだ。視界が滲みかけるのを何度も瞬いて堪えた。
(恨み言など、言わないわ)
異形の力を得たのは自分の決断だった。誰のせいでもない。
自分の護りたいもののために、戦った。それがすべてだ。
戻らない過去に対して、見苦しくわめき立てることだけはすまい。
過去の自分の決断を汚さないために。この手で殺めた命を、過ちであるなどとしないために。
正しいとか誤りであるという問題ではなく、ただ自分でそうしたことだ。
それが、自分の矜持だ。
握った左手を右手で覆い、ヴィヴィアンは静かに息を吸った。
「……断るわ、ジュリアス。私はこの力を再び人に対して使うつもりはない。それが、普通の人であるなら尚更よ」
「ヴィヴィアン、何か誤解が――」
「いいえ。あなたが何をどう思おうと、誰を娶ろうと私には関係のないことだし、あなたにはあなたの人生がある。私にも私の人生がある。それだけのことよ。ここで暮らせるよう支援してくれたことには感謝するわ。けれど力にはなれない」
ジュリアスがかすかにうろたえたように見えた。
先ほどまで冷たい皮肉と悪意を降らせていたタウィーザは沈黙する。その視線を強く感じたが、ヴィヴィアンは振り向かない。
ジュリアスはなおも言い募る様子を見せたが、ヴィヴィアンは静かに拒絶した。
「……やむをえないな」
」
嘆息とともに、ジュリアスは言った。その目元にはかすかに怒りや不快感が、頬には強ばりが見えた。
「侍女と、その奴隷は引き取る」
明らかな命令だった。
ヴィヴィアンはひゅっと息を呑む。
代わりに声を尖らせたのはタウィーザのほうだった。
「は、脅す気か王子様」
「貴様のような卑しい輩を側におけばヴィヴィアンが惑わされる。ヴィヴィアン、いいな?」
疑問の形で威圧してくるその言葉に、ヴィヴィアンは黙った。屈したわけではなかった。
黙り、肯定ともとれる態度をとったのは――自分の側にいないほうが、アンナもタウィーザも安全だからだ。
たとえ、ジュリアスが自分から二人を取り上げようとしているのだとしても。
孤立させようとしているのだとしても。
「おい、聖女様。なんとか言え!」
タウィーザが荒い口調で言う。
「……二人を連れて行くのは構わないわ。でも手荒に扱わないで。アンナだけでなく、タウィーザのことも」
タウィーザの名を出すと、ジュリアスは嫌悪を眉間に表した。だが、ああ、と渋々ながらも短く肯定する。
聖女、とタウィーザが怒鳴る。
それに対比するかのように、ジュリアスはふと表情と声を和らげた。
「次の満月の後に迎えに来るよ。どうか考え直してくれ」
――それが婉曲な脅しであることを、ヴィヴィアンは疑わなかった。