それからどうやって帰宅したのか、ジュネはよく覚えていない。
館に戻る間も、戻ってからも、瞼の裏に天使の姿が焼き付いており、耳には水音と翼のはためく音が反響していた。
なかば夢見心地のまま次の日も泉に行ったが、天使の姿はなかった。
次の次の日も、その次の日も泉に通った。それでも天使はいなかった。
寝ても覚めても天使のことが頭から離れなくなった。
一日のほとんどを天使の姿を思い出すことに費やし、立ちすくむ。脳を冒す甘い毒、精神に刻まれた爪痕のようだった。
何度も何度も思い返して、ぼんやりと考える。
(……あの腕輪は、翼だったの……?)
ジュネの常識や知識でははかりしれない。だがあの腕輪を外したとき、翼は消えたのだ。
そして思い出すのは天使の横顔。あの目の眩むような美しさ。透徹とした魅力。どうしようもなく目を奪われる。
繰り返し繰り返し思い出すたび、飢えていく。
ジュネはほとんど気も狂わんばかりになった。
――自分にこんな激しい感情があることを知らなかった。
(もう一度会いたい)
会いたい。あの瞳に見つめられたい。声を聞きたい。自分の名を呼んで欲しい。
側にいたい。側にいてほしい。
――どうしてあのとき、木陰から飛び出さなかったのだろう。
痛烈な後悔のぶんだけ、ジュネは摩耗していった。
海水を飲み続けてもいっそうの水分を必要とするように、ただもう一度天使の姿を求めて泉へ通った。
会えない日は続いた。それでも通った。
執念が実を結んだのは、しばらく後のことだった。
ジュネは、再び泉で天使を見つけた。
またも樹陰に隠れてしまったジュネの前で、天使もまた前回と同じく翼を脱ぎ、泉の中に飛び込んだ。
それでようやく、ジュネはふらふらと木陰から出た。
頭の芯が痺れているような状態のまま、噴水台に両手をつく。
泉をそろそろと覗き込む。
水面は透き通っているのに、中に潜ったはずの天使の姿は見えなかった。
ジュネは半ば無意識に目を動かし、台に置かれた金の腕輪を見た。
――これが、翼になるのだ。
天使の背で光を広げ、羽ばたき、手の届かぬ高みへと運んでいってしまう。
そうして天使に会えなくなる。会えない間の、焼かれるような苦しみを味わう。
だが。
だから。
(これが……なければ)
ジュネはそのとき、ただそう思った。
そして思ったときには、二つの腕輪を手にしていた。
ぱしゃん、と水面が跳ねる。
とたん、ジュネはびくりと震え、後ずさった。それでも、手にした腕輪を放さなかった。
まるで――犯罪の現場を見咎められた罪人のようだった。
ジュネの頭は真っ白になる。何も考えられない。
気づいたときには、腕輪を持って走り去っていた。
息を荒らげ、土を踏み葉が体にこすれ、館に向かってひた走っていた。
自分が何をしたのか気づいたのは、館にたどりついて数刻ほどしてからだった。
胸に抱え込むようにして持ってきたものを、震えながら確かめる。
金の腕輪はいくぶんか光を失い、鈍い色に見えた。手折られ茎から切り離されて、間もなく枯れてしまう花のように。
――なんてことをしてしまったのだろう。
天使から、翼を盗んだ。
その事実を認識したとたん、ジュネは戦慄した。
罪。罪悪。ただの盗みではない。
『……君が、そんな女性だったなんて思わなかった』
かつての婚約者のそんな声が蘇り、ジュネは激しく頭を振った。
自分は、こんな悪事をはたらく人間ではなかったはずだ。
だがいまの自分は、あの誹謗に反論できぬ悪女そのものではないのか。
(返さなきゃ……)
ジュネの良心と理性とがそう言った。
しかし感情はそれに従わない。
――これを返したら。
天使は、自分のこの行いに激怒するだろう。超常の力で罰を下すかもしれない。
軽蔑され、憎悪される。そして、きっとこの翼で手の届かぬ高みに行き、自分の前に二度と姿を現さなくなるかもしれない。
それは、何よりもおそろしかった。
二度と会えなくなる、関われなくなる――いまのジュネには、そんなことは耐えられなかった。
いっそ、天使を見なければよかった。そうすれば、こんな苦しみを知らずに済んだ。
ジュネは一晩眠れぬ夜を過ごした。
答えが出ぬまま、朝を迎えた。寝返りを繰り返して様々な考えに苛まれ、だが結局は一つの疑問にたどりつく。
(……天使は、どうしているのかしら)
翼を奪われた天使は、どうしているのだろう。
夜が明け、日が高くのぼりはじめたころ、ジュネは再び泉へ出かけた。
泉が近づくと息を潜め、足音を殺して進んだ。
木陰に隠れて噴水台のほうをうかがう。
――そこに、倒れている人間がいた。
ジュネは小さく声をあげ、飛び出していた。
倒れた男の側に屈み込む。その顔を見て狼狽える。
天使だった。
天使はうつぶせに倒れ、背中に翼はなかった。まるで人間になってしまったかのようだった。
――まさか死んでしまったのか。
その恐怖が背から脳へと突き抜け、震えた。
だが口元に耳を近づけると、かすかに呼吸が聞こえた。
(生きてる……)
ジュネはその場にへたりこんだ。自分が翼を奪ったために天使の命を奪ったなどとあれば、自分も生きてはいられない。
(医者に、診て貰わなきゃ……)
半分麻痺した頭でそう思い、緩慢に立ち上がる。
おそるおそる来た道を、今度は全力で駆けた。
突如駆け込んできてまくしたてるジュネに町医者は目を丸くし、困惑しながらも天使を診療所に運ばせ、診た。
むろん、ジュネはこの端整な男が天使であるとは誰にも言わなかった。
外傷はなく、病のようにも見えない。ただ意識を失っているだけではないか、と医者は言った。
ジュネは、天使――彼の目覚めを待った。
彼の目覚めを切望するような、おそれてもいるような複雑な気持ちだった。
そして彼は目を覚ました。
夢見て焦がれた紫の瞳と目が合ったとき、ジュネは全身を震わせ、目眩に襲われた。
けれど天使は――記憶を失っていた。
彼自身戸惑い、愕然としているようだった。自分の名前すらわからないという。
ジュネもまた愕然とした。
――こんなことがあっていいのか。
こんな、自分にとって都合のいいことが。
まるで悪魔と契約したかのようだった。良心と引き換えに、望みのものを手に入れようとしている。
記憶を失っていること以外、彼はまったく健康体だった。
むろん、この町ではジュネ以外に誰も彼を知らず、身寄りもない。
ジュネは、自分の館に彼を引き取ることを申し出た。
名前すら思い出せぬ彼はただただ困惑していたが、自分の発見者であるジュネだけが頼りであると思ったようだった。
ミヒャエルというのは、ジュネが彼に与えた名だった。
ジュネは、ミヒャエルに尽くした。罪悪感の分だけ、そしてそれを遥かに上回る、震えるような喜びの分だけ。
ただ彼を見つけた場所と時間だけ事実を伝え、あとはすべて伏せた。
一時町中に様々な憶測が飛び交ったが、どれもすべて真実からはほど遠く、真実を隠すほうへとはたらいた。
ともに過ごすうち、何も知らないミヒャエルはジュネに素直な感謝を表すようになった。
そしてジュネの気持ちが伝わったかのように、好意を返してくれるようになった。
ミヒャエルが自分に好意を抱いてくれていると知ったとき――その膨大な喜びに、ジュネは酔った。
――そしてそのとき、ジュネは自ら悪になることを決めた。
翼は返さない。隠し続ける。
罪悪感ごと、自分の棺桶の中にまで持っていく。
このかつてない幸福を永遠のものにするために。
館の自室に隠し持っていた翼を、別のところに隠すことにした。ミヒャエルと暮らす場所にそれを隠すのは危険すぎる。
かといって、町の他の場所は、他の誰かに見つかるかもしれないと思い、怖くなった。
自分しか知らない――そして他人が滅多に近寄らない場所がいい。
それは皮肉にも、《降臨の泉》の側でしかありえなかった。
ジュネは一人で、目印となる木の根元に翼を埋めた。
――もう二度とこの泉には来ない。
そう誓い、泉と決別した。
それからの日々は瞬く間に過ぎた。
はじめこそ彼が記憶を取り戻すのではという恐怖を覚えたものの、幸福な日々が積み重なるうちに埋没してゆき、ジュネの世界は喜びで満ちた。
ミヒャエルは無垢な感謝と愛を口にする。
ジュネはそれを受け止め、それ以上のものをミヒャエルに返すと決めた。
事実、ジュネはこれほど人を愛したことはなかった。
きっとこれからもない。