偽り奪い、彼女は悪役令嬢になった11

   ◆

 

『 親愛なるジュネへ
 元気にしているだろうか。君は、もう私のことなど忘れているかもしれない。
 自分でも、今更だと思う。だがこの先、君に哀れな男だと思われても、愚かな男だと思われるのはあまりにも苦しいので、謝罪だけはさせてほしい。
 本当にすまなかった。
 君には、何一つ非がなかった。そのことをずいぶん後になって知った。
 すべては君を嫉んだ者たちの虚言だったと気づいた。冷静になればわかることだったのに、どうしてあのときの私は君を信じられなかったのだろう。
 君に言ってしまった暴言を、すべて撤回する。愚かなのは君を嫉んだ者たちであり、私のほうだ。
 許してくれとは言わない。ただ、私の目が覚めたこと、そして謝罪の気持ちがあることをわかってほしい。
 君はいま、都から遠いところにいると聞いた。喧噪を逃れたい気持ちだったのだろうか。
 それは私のせいでもあるのか。
 もし君が私を哀れんで許す気になって、帰る日が来たら、ぜひ一報してほしい。改めて謝罪したい。
 かなうなら、以前のように私たちのあるべき関係に戻りたい。
 返事をくれたら嬉しい。

 君の幸せと平穏を願って。
                     ダヴィド 』

 見知った署名まで読み終えたあと、ジュネは顔を上げた。
 忘れ捨て去ったはずの過去からいきなり手紙が届いたようで、少し驚いた。
 開封しないまま捨てることも考えたが、なんとなく開けて読んでしまった。
 過去の断片が蘇るようで、かすかに懐かしさのような覚えた。
 だが、それだけだった。もはやいかなる喜びも悲しみも、怒りすらもわき起こらない。
 時は巻き戻らないのだ。
 自分はもはや――非のない人間ではなくなっているように。

 便箋びんせんを封筒に戻し、そのまま捨てようと思った。
 けれどダヴィドの後悔と謝罪が滲む手紙は、なにか他人事とは思われずに、机の上に置いた。自分とて、過ちを犯した人間だった。
 それから館を出る支度をした。

「……今日もお出かけですか?」

 使用人が不安げな顔をする。ジュネは力ない微笑を浮かべ、館を出た。
 供はつれなかった。
 淡々とした足取りで、森を進んでいく。
 あの日から、一日も欠かさずそうしている。泉に向かうために。

 あの日――翼を取り返され、ミヒャエルを失った日。

 ジュネは泉の側で泣き続け、声をらした。
 あとになって、失踪した主夫婦を使用人たちが町の人間と共に総出で探した。
 ジュネは保護されたが、ほとんど錯乱状態になっていて、医者が呼ばれた。鎮静薬を与えられ、しばらく眠った。

 すべてが夢であればいいと思った。悪い夢を見ていて、起きたらまた、愛した夫が傍らにいるのだと。
 だが、目覚めてもミヒャエルはそこにいなかった。

 ミヒャエルの姿が突然消えたことに、他の者たちも訝しんだ。ジュネは事情を聞かれたが、話せる状態にはなかった。
 その間に、また様々な噂が立って、ジュネは未亡人として同情される側になっていた。
 だがそんなことはどうでもよかった。
 絶望が心身を苛み、ジュネから生きる気力を奪っていった。

 一月、二月と経ち、半年は瞬く間に過ぎた。
 その間にジュネをかろうじて生かしていたのは、ミヒャエルの子供を身籠もっているかもしれないというかすかな希望だけだった。
 だが、それも潰えた。
 天使は何一つ残さず、ジュネのもとから去って行った。

 ジュネの世界は色を失い、音はぼやけ、匂いは鈍くなった。
 ――罰が当たったのだと、灰色の世界で思った。
 天使から翼を奪った罰。偽り、己がものにしようとした罰。
 けれど、それで過去にしてしまえるものではない。

 狂乱が去ったあと――ジュネはまた泉に足を運ぶようになった。
 何か明確な考えがあったわけではない。ただ、天使と出会った泉に行けば、もう一度会えるのではないかという浅はかな考えがあっただけだ。

 ――ミヒャエルを失った場所も、同じくその泉であったとしても。

 森は静かだった。その静けさで胸の軋む音が聞こえそうなほどだった。
 白い台に囲まれた泉が見えてくる。
 誰もいない。

 ジュネは、台に腰掛けた。
 澄んだ水面を見つめる。静かな水面には、物憂い顔の女が映っている。

(ミヒャエル……)

 ――戻って来て、とジュネは祈る。
 記憶を失っていたとしても、偽りのもとに成り立っていたとしても、ミヒャエルが自分に向けてくれた感情のすべてが幻だったとは思えなかった。
 自分の願望にすぎないとしても、確かに一度は、ミヒャエルと心が通い合ったのだ。

(もう一度だけ……)

 戻ってきてほしい。どんな償いでもする。
 もう二度と偽らないから――。
 ジュネの想いだけは真実だった。
 愛する気持ちはいまも変わらない。
 ミヒャエルがすべてだった。ミヒャエルこそがジュネの光だった。

 やつれた頬に涙が伝い、顎を滑って水面に落ちた。小さな波紋が広がる。
 水面に何度かその波紋が生じては消えた。
 鳥のさえずり。風に遊ぶ枝葉のささやき。

 涙が乾いたあと、ジュネはゆっくりと立ち上がる。
 そして頭上を見た。木々の向こうに覗く空は青かった。

(……待っているわ、ミヒャエル)

 彼を忘れることなどできそうになかった。
 罪だというのなら、それが許されるときまで待つつもりだった。
 そのときはきっと、ミヒャエルはここに姿を現してくれる。そんな気がした。

 何度か振り返りながらも、ジュネは泉を後にする。
 涙を拭った頬に、森の空気は冷たくも澄んでいた。
 館へ戻るために、ひとり、来た道を戻っていく。

 

 ――森へ戻り遠ざかる女は、泉にゆっくりと光が降ってきたことに気づかなかった。
 陽射しよりもなおまばゆい、輝ける影は眼差しを投げかける。
 視線の先に小さくなる女の背がある。

 森のささやきにまじって、その呼び声が響き渡った。

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