偽り奪い、彼女は悪役令嬢になった9

   ◆

 

 ――そのとき、ジュネは自棄になっていた。
 それ以外の言葉で表しようがない。
 他の令嬢の嫉妬と悪意によって、ダヴィドとの婚約は破談になった。自分を信じてくれないダヴィドにも怒り失望し、やがて絶望へ変わった。

 逃げるようにしてこの田舎の町に来た。都からもっとも遠い別荘がそこにあったのだ。
 ジュネはしばらくそこに別荘に閉じこもったまま泣き暮らした。
 悔しさや屈辱や悲しみが千々に入り乱れ、泥沼の中をもがいているような気分だった。
 やがてあるとき、数少ない使用人が“泉”のことを教えてくれた。

《降臨の泉》。

 町の北には森があって、その奥には聖なる泉があるという。
 その泉には、“天使”が現れるというのだ。
 天使は人前に姿を見せない。見てもならない。
 けれど泉に向かって祈れば天使が聞き届けてくれ、怪我や病は治り、心の穢れは浄化されるのだという。

 ――田舎によくある、おとぎ話だ。
 ジュネは信じなかった。それでも、その泉に行ってみようと思った。
 天使でも化け物でもなんでもいい。自分の心を少しでも救ってくれるのなら、なんでもよかった。

 神聖な場所だからと渋る使用人にしつこく頼み、ジュネは《降臨の泉》に案内してもらった。
 森奥に突然現れた白の噴水台と、その中の澄んだ湧き水とは、確かにおとぎ話の舞台になりえる景観だった。
 それでもまだ、少し厳かな気持ちになる場所というだけで、他に特別な何かがあったわけではない。
 ――ただ、澄んだ泉を見ているうちに、泥沼に沈んでいくような気分が少しましになったのは事実だった。

 落ち延びるようにやってきたこの町で、他にやるべきこともない。
 だから、ジュネは泉に頻繁に通うようになった。
 この町のもともとの住人でない身には、泉をおそれ敬う気持ちも、そこを軽々しく訪れてはいけないという気持ちもない。

 噴水台に座り込んでは、清澄な水面を眺める。小鳥の声、木々の枝葉のささやきを聞く。風を感じる。ただそうやって時間を過ごす。
 泉は、底まで見通せるほど透き通っている。だが実際に手を入れてみると、肩ほどまで入れても指先すら底に届かなかった。かなり深く、井戸のようになっているのかもしれない。

 変化があったのは、しばらくしてからのことだった。
 その日も、ジュネは一人で泉に出かけた。
 だがいつもの噴水台が見えてくると、先客がいることに気づいた。森に棲む動物でもない。人影だ。
 けれどその人影は、木々の影がおりる森の中にあってもなお不自然なほど輝いていた。
 まるで人影自体が光源であるかのように。
 均整の取れた体つき、美しい金髪、紫の瞳――。

 そしてその背に生えた、白く光る一対の翼。

 とっさに、ジュネは木に隠れていた。
 どくどくと心臓がうるさくなり、思わずあげそうになった声をおさえようと両手で口を塞いでいた。
 自分の激しい動悸で耳を覆われる。
 成人の人間男性に見えた。あの背中の翼をのぞいては。
 とっさに隠れたのは、なにか、見てはいけないもののような気がしたからだ。

(“天使”――)

 使用人から聞いたその言葉を、ジュネは思い出した。
 奇跡。神秘。人が見てはいけないもの。
 そのまま、立ち去るべきかもしれなかった。
 否。きっと立ち去るべきだった。
 だがジュネはそうしなかった。

 目の裏に、先ほど見たばかりの“天使”の姿が浮かんだ。
 ――抗いがたいものに吸い寄せられるように、樹木の影から泉をのぞいた。
 “天使”はまだそこにいた。
 噴水台に腰掛け、上半身をひねりながら泉を覗き込んでいる。

 ジュネは息を潜めてそれを見た。
 天使の、そのあまりの美しさに時を忘れた。
 淡く光る金色の髪。眉間から高い鼻にかけての美しい斜線。泉を見つめて伏し目がちになると、長い睫毛に飾られて繊細さが際立つ。だが眉や唇には凜々しさがある。
 白い肌はほとんど透き通るようで、人ではないものであることを強調しているようだった。
 背中から生えた翼は、蝶のはためきを思わせるほどにかすかに揺れている。
 ジュネは喉を鳴らした。

(なんて……美しいの)

 こんなに美しい男を見たことがない。社交界の華と呼ばれる美女たちですら、この天使の美貌には及ばない。

 魅入られて動けなくなる――。

 樹陰で息を潜めたまま硬直するジュネの前で、天使の翼が一度はためいた。背でおりたたまれる。
 と、ふいに両肩から腕にかけてが光った。呼応するように翼も光っている。
 光はやがて手首のあたりで収束し、消えた。

 ジュネは目を見開く。
 天使の背から、光輝く翼が消えていた。同時に、両手首に目を射るような黄金の腕輪がはまっているのが見えた。

 天使が少し手を持ち上げると、腕輪はひとりでに手から落ち、からんと軽やかな音をたてて白い噴水台に落ちた。
 そうして、天使は台に腰掛けた姿勢のまま、背中から泉に倒れた。
 跳ねる水音がして、天使の姿が消える。

 ジュネは小さく悲鳴を飲み込んだ。呆然とする。
 天使は――泉の中に落ちていってしまった。
 そしていま目の前にあるのは、静謐な泉だけだった。見慣れた白い噴水台、風にささやく木々と小鳥のさえずり――。
 たったいまそこに天使がいたことなど幻であったかのように。

 だが、台に置かれた二つの腕輪が、ジュネが見たものを証明しているようだった。
 天使の姿が消えてもなお、ジュネはその場から動けなかった。
 衝撃が少しずつ引いていくと、天使の姿をもう一度目にしたいという強い衝動が残った。

 どれくらいの時が経ったのかはわからない。
 ふいに水音がして、輝く飛沫が散った。
 天使が台の中から現れ、森に降り立つ。
 濡れた全身は、金髪に覆われた頭が一度降られると一瞬で渇いた。体の表面にあった水分を消し飛ばしてしまったかのようだった。

 長い指が、台の上にあった腕輪を取る。手首に嵌め直す。
 とたん、腕輪は息を吹き返すかのごとく発光し、光は腕を駆け上り、背中まで突き抜けた。輝ける翼が再び現れる。
 翼ははためく。ゆっくりとその動作を繰り返すと、天使の体が浮き上がる。

 ジュネはひくりと喉を引きつらせた。
 ――行ってしまう。
 だが、目の前の光景があまりにも幻想的で、動けない。
 天使の体は瞬く間に上昇していく。森を抜け、その向こうの遥か青空へと吸い込まれていく。

 すぐに、その姿は見えなくなった。
 それから少ししてようやく、ジュネはふらりと木の陰から出た。
 酔ったような足取りで泉に近づき、天使の手が触れていた噴水台に手をかける。泉を覗き込む。
 澄んだ水面に、呆然とする女の顔だけが映っていた。

いいね
シェアする