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――そのとき、ジュネは自棄になっていた。
それ以外の言葉で表しようがない。
他の令嬢の嫉妬と悪意によって、ダヴィドとの婚約は破談になった。自分を信じてくれないダヴィドにも怒り失望し、やがて絶望へ変わった。
逃げるようにしてこの田舎の町に来た。都からもっとも遠い別荘がそこにあったのだ。
ジュネはしばらくそこに別荘に閉じこもったまま泣き暮らした。
悔しさや屈辱や悲しみが千々に入り乱れ、泥沼の中をもがいているような気分だった。
やがてあるとき、数少ない使用人が“泉”のことを教えてくれた。
《降臨の泉》。
町の北には森があって、その奥には聖なる泉があるという。
その泉には、“天使”が現れるというのだ。
天使は人前に姿を見せない。見てもならない。
けれど泉に向かって祈れば天使が聞き届けてくれ、怪我や病は治り、心の穢れは浄化されるのだという。
――田舎によくある、おとぎ話だ。
ジュネは信じなかった。それでも、その泉に行ってみようと思った。
天使でも化け物でもなんでもいい。自分の心を少しでも救ってくれるのなら、なんでもよかった。
神聖な場所だからと渋る使用人にしつこく頼み、ジュネは《降臨の泉》に案内してもらった。
森奥に突然現れた白の噴水台と、その中の澄んだ湧き水とは、確かにおとぎ話の舞台になりえる景観だった。
それでもまだ、少し厳かな気持ちになる場所というだけで、他に特別な何かがあったわけではない。
――ただ、澄んだ泉を見ているうちに、泥沼に沈んでいくような気分が少しましになったのは事実だった。
落ち延びるようにやってきたこの町で、他にやるべきこともない。
だから、ジュネは泉に頻繁に通うようになった。
この町のもともとの住人でない身には、泉をおそれ敬う気持ちも、そこを軽々しく訪れてはいけないという気持ちもない。
噴水台に座り込んでは、清澄な水面を眺める。小鳥の声、木々の枝葉のささやきを聞く。風を感じる。ただそうやって時間を過ごす。
泉は、底まで見通せるほど透き通っている。だが実際に手を入れてみると、肩ほどまで入れても指先すら底に届かなかった。かなり深く、井戸のようになっているのかもしれない。
変化があったのは、しばらくしてからのことだった。
その日も、ジュネは一人で泉に出かけた。
だがいつもの噴水台が見えてくると、先客がいることに気づいた。森に棲む動物でもない。人影だ。
けれどその人影は、木々の影がおりる森の中にあってもなお不自然なほど輝いていた。
まるで人影自体が光源であるかのように。
均整の取れた体つき、美しい金髪、紫の瞳――。
そしてその背に生えた、白く光る一対の翼。
とっさに、ジュネは木に隠れていた。
どくどくと心臓がうるさくなり、思わずあげそうになった声をおさえようと両手で口を塞いでいた。
自分の激しい動悸で耳を覆われる。
成人の人間男性に見えた。あの背中の翼をのぞいては。
とっさに隠れたのは、なにか、見てはいけないもののような気がしたからだ。
(“天使”――)
使用人から聞いたその言葉を、ジュネは思い出した。
奇跡。神秘。人が見てはいけないもの。
そのまま、立ち去るべきかもしれなかった。
否。きっと立ち去るべきだった。
だがジュネはそうしなかった。
目の裏に、先ほど見たばかりの“天使”の姿が浮かんだ。
――抗いがたいものに吸い寄せられるように、樹木の影から泉をのぞいた。
“天使”はまだそこにいた。
噴水台に腰掛け、上半身をひねりながら泉を覗き込んでいる。
ジュネは息を潜めてそれを見た。
天使の、そのあまりの美しさに時を忘れた。
淡く光る金色の髪。眉間から高い鼻にかけての美しい斜線。泉を見つめて伏し目がちになると、長い睫毛に飾られて繊細さが際立つ。だが眉や唇には凜々しさがある。
白い肌はほとんど透き通るようで、人ではないものであることを強調しているようだった。
背中から生えた翼は、蝶のはためきを思わせるほどにかすかに揺れている。
ジュネは喉を鳴らした。
(なんて……美しいの)
こんなに美しい男を見たことがない。社交界の華と呼ばれる美女たちですら、この天使の美貌には及ばない。
魅入られて動けなくなる――。
樹陰で息を潜めたまま硬直するジュネの前で、天使の翼が一度はためいた。背でおりたたまれる。
と、ふいに両肩から腕にかけてが光った。呼応するように翼も光っている。
光はやがて手首のあたりで収束し、消えた。
ジュネは目を見開く。
天使の背から、光輝く翼が消えていた。同時に、両手首に目を射るような黄金の腕輪がはまっているのが見えた。
天使が少し手を持ち上げると、腕輪はひとりでに手から落ち、からんと軽やかな音をたてて白い噴水台に落ちた。
そうして、天使は台に腰掛けた姿勢のまま、背中から泉に倒れた。
跳ねる水音がして、天使の姿が消える。
ジュネは小さく悲鳴を飲み込んだ。呆然とする。
天使は――泉の中に落ちていってしまった。
そしていま目の前にあるのは、静謐な泉だけだった。見慣れた白い噴水台、風にささやく木々と小鳥のさえずり――。
たったいまそこに天使がいたことなど幻であったかのように。
だが、台に置かれた二つの腕輪が、ジュネが見たものを証明しているようだった。
天使の姿が消えてもなお、ジュネはその場から動けなかった。
衝撃が少しずつ引いていくと、天使の姿をもう一度目にしたいという強い衝動が残った。
どれくらいの時が経ったのかはわからない。
ふいに水音がして、輝く飛沫が散った。
天使が台の中から現れ、森に降り立つ。
濡れた全身は、金髪に覆われた頭が一度降られると一瞬で渇いた。体の表面にあった水分を消し飛ばしてしまったかのようだった。
長い指が、台の上にあった腕輪を取る。手首に嵌め直す。
とたん、腕輪は息を吹き返すかのごとく発光し、光は腕を駆け上り、背中まで突き抜けた。輝ける翼が再び現れる。
翼ははためく。ゆっくりとその動作を繰り返すと、天使の体が浮き上がる。
ジュネはひくりと喉を引きつらせた。
――行ってしまう。
だが、目の前の光景があまりにも幻想的で、動けない。
天使の体は瞬く間に上昇していく。森を抜け、その向こうの遥か青空へと吸い込まれていく。
すぐに、その姿は見えなくなった。
それから少ししてようやく、ジュネはふらりと木の陰から出た。
酔ったような足取りで泉に近づき、天使の手が触れていた噴水台に手をかける。泉を覗き込む。
澄んだ水面に、呆然とする女の顔だけが映っていた。