この場にありえない声が、耳を打った。
ジュネの心身は凍りつく。唐突に世界のすべてが悪夢の中にあるように思えた。
繰られた人形のように振り向く。
誰よりもこの場にいてほしくない――見られたくない相手がそこに立っていた。
どうして。なぜ。ミヒャエルがここに。
紫の目はかすかに歪められている。痛みを堪えているような、それでいて痛ましいものを見つめるような目。
「それは……?」
ミヒャエルはつぶやき、目はジュネの手にあるものに移る。
ジュネの喉が引きつり、とっさに腕輪と布とを自分の胸に抱え込む。ミヒャエルの目から隠そうとする。
逃げ隠れようとして立ち上がり、よろめいて後退する。
どん、と背中に木が当たった。靴が、掘り返した土の残骸に汚れる。
鼓動は激しく乱れ、耳の奥でがんがんと鳴っている。目眩がする。
――見つかった。
見つかって、しまった。
がくがくと体が震え出す。唇を動かして言い訳を吐き出そうとする。だが一言もでず、ただ痙攣するだけだった。
ミヒャエルは一歩、踏み出した。
「黙って尾行するようなことをして悪かった。ただ、君が僕にも言えない何かを抱え込んでいるように思えたから」
紫の双眸はジュネを見つめている。そこには怒りも嘲りもない。
露見してしまう――そんな悪夢を何度も見た。そのときのミヒャエルの姿とは違う。
それでも、ジュネの全身は冷たいままだった。
なぜ、いつ――これまでずっと幸せで平穏だったのに。
自らここへ来てしまったことへの身を焼くような後悔。取り返しの付かない過ち。
ミヒャエルはずっと、自分がこうするのを待っていたのだろうか。
――違う。
なら、別のきっかけがあった。
いつ。
もう一歩、ミヒャエルが踏み出す。苦しげな、けれど真摯な目でジュネを見つめている。
「君を、疑っているわけじゃない。信じてる」
静かな熱のこもった声が、森の中に溶けて消える。
ジュネの心は大きく揺れた。ミヒャエルはその場しのぎの言葉を口にするような人ではない。
それでも――ミヒャエル自身にも言い聞かせているような言葉のように聞こえた。
君を信じているなどいう言葉を、これまでに彼は口にしたことがない。
わざわざ口にするまでもないことだったのだ。
当たり前のように信じている相手に向かって、あなたを信じているなどとは言わないのだから。
ジュネの世界はぐらりと傾く。
そして唐突に、耳奥に蘇る声があった。
『ミヒャエルのあの性格なら、ジュネに心配かけまいとひとりで抱え込むとこはあるかもしれない。おかしいと思い始めたのはいつごろだい?』
――常より情熱的になったミヒャエル。
何か様子がおかしいとは思った。だが愛される喜びがジュネの目を曇らせ、思考を鈍らせた。
『不安で、心配で、それで妻を引き止めようとしているってことだったりしてね』
――不安。心配。
それは浮気を疑うなどというものではなかった。
もっと違うものを疑っていた。
だが。
(だから……)
だからこそ、まるで縋るかのように強く抱きしめられ、触れあいを多く求めていたのではないか。
頬に触れる大きな手も、体を抱く腕も、熱を帯びた唇もすべて――妻を信じたいという気持ちの表れではなかったか。
ジュネは激しく殴打されたように息が詰まった。
――嫉妬や浮気などと、浮かれた頭でミヒャエルの行動を誤解していた自分に吐き気がする。
ミヒャエルが、更に踏み出す。
「何かを知っているのなら、教えて欲しい。君が、隠していたのは……僕のためであったとしても。たとえ僕が口にするのもはばかられるような人間だったとしても、君は、それでも僕を愛してくれたのだから」
誰もが目を奪われる端整な顔が、苦しげに歪む。
疑い。おそれ。不安。そんなものが浮かんでいる。
そんな表情をさせているのは自分だった。
ミヒャエルは、自分が人に言えぬ過去を持っているのではないか、だからジュネが隠したのではないかと思っているらしかった。
――ジュネの目の奥が熱くなった。
ミヒャエルは自分を信じてくれているのだと痛感した。そのぶんだけ、彼を裏切っているというおそれが全身を苛んだ。
ミヒャエルは罪人などではない。ミヒャエルには非など一つもない。
――ミヒャエルを守るために黙っていたのではないのだ。
それどころか、真逆の理由だった。
「ジュネ、教えてくれ。それは、私の過去に関するものなのか? 君が、黙っていた理由は……」
ジュネの美しい夫はまた踏み込む。
ジュネは脆く後じさろうとし、だが木に阻まれる。
逃げなければならないのに足は萎え、ミヒャエルの眼差しに呪縛されて動けない。
ジュネ、と切実な声がまた呼ぶ。
次の瞬間、ジュネは顎下に光を感じた。驚いて目を下にやると、抱え込んだ金の腕輪が強く発光していた。
「ぐ……っ」
「――っミヒャエル……!?」
とたんにミヒャエルがうめき、端整な顔が歪んだ。その場で膝を折り、頭を抱える。
ジュネはとっさに夫に駆け寄った。片手に腕輪を抱き、もう一方の手を夫に伸ばす。
触れる直前、項垂れていた金色の頭が持ち上がった。
紫の目がジュネを見る。
その目の暗さに――それでいながら映り込んだ光の射るような強さに、ジュネは息を呑む。
「――お前か」
低い、別人のような声。
影と光の強くなった瞳がジュネを捉えている。
「お前が――私の翼を奪ったのか!」