鋭い刃を思わせる叫び。
その叫びはジュネの胸を切り裂き、硬直させる。
がくがくと震え、よろめくように後退する。――金の腕輪を強く握りしめたまま。
ミヒャエルが、ジュネの夫であった男もまたふらつきながら立ち上がる。そして手を伸ばしながらジュネに近づく。
「返せ! 盗人が……っ!」
激しい怒りに満ちた声と言葉が、ジュネを強く殴る。――一度たりとも声を荒らげたことのなかったミヒャエルとはまるで別人だった。
ジュネの目の奥は痛み、瞬く間に視界が滲んだ。
『記憶が戻っても、私の気持ちは変わらないよ』
あの優しい言葉が、愛情に満ちた響きが頭の中で反響する。
変わらないと言ったのに。
そんなふうに、ミヒャエルを詰りたかった。だが唇は半端に開いたまま固まった。
自分にミヒャエルを罵る権利などなかった。
それでも腕輪を渡すまいと強く抱え込み、後退する。
「ごめんなさい……ごめんなさい。でも、あなたを愛しているの……!」
「黙れ!」
かつて聞いたことのない怒声がジュネを穿つ。
ジュネを睥睨する目は激しい感情で光り、優しい夫の顔はもうどこにもなかった。
「私から翼を奪い、ずっと私を欺いていたのだな。邪悪な女め……!!」
ミヒャエルであった男は吐き捨てる。そうしながら大股に距離を詰める。
胸を穿つ糾弾に、ジュネは膝から崩れ落ちそうになる。
――邪悪。
悪女、とかつてダヴィドに言われた言葉と耳奥で重なる。
ジュネはよろめいて後退し、身を翻す。
――この腕輪を奪われてしまったら終わりだ。
他に何も考えられない。とにかく遠くへ、これを持って逃げようとする。ミヒャエルに渡してはならない。
走る。
男の怒声。
後ろから、腕を掴まれた。とっさに振り解こうとする。だが痛いほどに掴まれ引き寄せられ、胸に抱えていた腕輪が手からこぼれ落ちる。
「いや……っ!!」
ジュネは即座に屈み、腕輪に手を伸ばした。
だが同じく伸びた男の手のほうが早かった。大きな手が腕輪に触れたとたん、強烈な光が迸ってジュネの目を射た。
思わず顔を背け、射られた目に涙が溢れて瞬きをする。
滲む目をなんとか戻す。
歪む視界に、二つの腕輪を手にした男の姿が見えた。腕輪は、もとの主に戻ったことを歓喜するかのようにひときわ強い光を放っていた。
ああ、と絶望のうめきがジュネの喉をつく。
一つの腕輪が男の左手首に。もう一つの腕輪が右手首にはめられる。
腕輪の光が、男の腕を駆け上る。肩に、背に――そして。
男の背中から、まばゆい光が形をもって広がった。
それは、一対の翼の形をしていた。
翼を得て、光に照らされた目は冷厳にジュネを見ている。
端整な顔には凍るような冷たさだけが浮かんでいる。血の気が感じられないような――一切の情愛を感じられぬ眼差し。
ジュネは必死に声を絞った。
「いや……、いや、お願い、行かないで……っ!」
手を伸ばしながら駆け寄ろうとして、転倒する。
跪いて祈るもののように、かろうじて上半身を起こして男を見上げた。
「あなたの翼を隠したことは謝ります、一生をもって償います! どうしてもあなたが欲しかったの! あなたがいなければ生きていけない……!」
引きつり、かすれた声を振り絞る。
男は答えない。彫像のように直立し、ただ何も心を動かされた様子はなくジュネを見下ろしている。
背に生えた翼の輝きが地を這う女を照らし、貫く。
「お願い……ミヒャエル。許してくれなくていい。でも私にくれた愛が本物であったら、どうか」
――どうか、側にいて。
嗚咽を堪え、震えながらジュネは言った。
懇願の残響が森の空気に消えていったあと、無表情に見下ろしていた男の顔に、かすかな変化があった。
形の良い眉、口元に現れた動き。歪み。揺れ――。
そして唇から、冷たく頑なな言葉が放たれた。
「悪女め」
一言、男はそう吐いた。
ジュネの全身が痙攣した。
紫の目はかつて妻だったものから逸れ、天を向く。木々の頂きよりもさらに高いもの――天を見据える。
光の翼が羽ばたいた。
――待って。
ジュネの喉が震える。もつれ乱れた息ばかりがこぼれる。立ち上がる。手を伸ばす。
夫の均整のとれた体が微風を受け、その爪先が地面から浮いた。
ジュネは走った。
「行かないで、ミヒャエル……っ!!」
腕を伸ばし、引き止めようとする。
だが指先は空を切った。
男の体は瞬く間に上昇していき、地上を這う女を紫の目が見下ろす。
「ミヒャエル……っ!!」
半狂乱になった女は叫ぶ。
「あ、あなたの子を身籠もっているかもしれない! だから……っ」
女はもつれる舌で必死に言い募る。
翼を持った男は一瞬だけ滞空する。そして侮蔑の眼差しを投げかけた。
「人間の胎に、天使の子が宿るわけがない」
そう言って、天使の姿は遠ざかっていく。
女の悲鳴と懇願を足元にしながら、晴天の遙かな高みへ――誰も見ることのかなわぬ向こうへと小さな光点となって消えていった。
一人残された女の慟哭が、森奥にこだまする。
だがそれを聞く者はいない。
やがて長く続いた慟哭は弱くなり、その残響さえ木々に押し包まれるように聞こえなくなった。